間一髪です、ロザリア様。
「――っ!」
カップが傾いた。
お父様が息を呑み、エミリアが「ああっ!」とわざとらしい悲鳴を上げようと口を開いた。
あれ、私、やらかした?
また一周目と同じ展開になるの?
あれだけ練習したのに。
こんなんじゃまた、ユリウスに呆れられちゃうじゃない―――
その瞬間。
誰かの影が視界を横切る。
見れば、ユリウスの手がカップの底を支えていた。
彼はいつの間にか私の右隣にいて、
まるで時の流れそのものを掴んだかのように動きを止めていた。
「……恐れ入ります。ロザリア様のお席のスープが、わずかに熱すぎたようでございます。」
背筋が凍るほどの静かな声。
スープは辛うじて零れず、代わりに私の心臓がドクドクと激しく跳ねた。
(あっぶな〜〜〜〜い!!!!!)
一周目の二の舞になるところだった!
それに今、ユリウスの目が笑ってなかった。慇懃に頭を下げているけれど、その双眸には「次はない」という冷徹な処刑宣告が刻まれている。なにより、珍しくその額には冷や汗が滲んでいる。
心臓のバクバクを必死で抑え込みながら、私は震える指先をそっと膝の上のナプキンに隠した。伯爵の鋭い視線が、私とユリウスの間を行き来している。
「……驚いたな。執事の機転もさることながら、その動揺のなさ。一瞬、大惨事になるかと思ったが……。ロザリア嬢、貴女はまるで、今この瞬間に何が起きるか知っていたかのように落ち着いているな」
伯爵の言葉に、喉の奥がひきつる。
落ち着いているんじゃない、あまりの恐怖に体が固まって動けないだけよ!
けれど、ここでボロを出すわけにはいかない。私はユリウスに叩き込まれた「完璧な淑女」の仮面を、全力で顔面に貼り付けた。
「まあお姉様、大丈夫ですか!?手が震えていらっしゃるわ……。給仕! 早くお下げして!」
エミリアの声が食堂に響き渡る。その声音は一見、姉を深く案じる妹のそれだったけれど、恐らくこうして素早く行動することで、私の「醜態」を確定させ、この場の主導権を奪い去るつもりなのだろう。
けれど、彼女の目論見は、ユリウスの鉄壁の対応によって音もなく霧散する。
「……ご懸念には及びません、エミリア様。スープは一滴も零れておらず、テーブルを汚すこともございませんでした。」
ユリウスは流れるような所作でカップの位置を直す。その間際に、ユリウスは私にしか聞こえないような小さな声で、流れるようにこう言った。
「……ロザリア様。貴女は先ほど、ご自身でスープの温度を確かめておられました。……その上で手を滑らせるなど、まさか有り得ませんよね」
…?どういう意味?
確かに私はさっき、しっかりとスープの温度を確認してから飲んだはずだ。
それでも零してしまったのは、確かに私の不手際だが。
一瞬の混乱。けれど、その直後に冷や汗が背中を伝った。
―――ユリウスは、なにかを知っているのだ。
「ロザリア様。……不思議ですね。この給仕室から運ばれてきたばかりのスープ、表面からは湯気が立っていないというのに、ロザリア様がスプーンを差し込んだ瞬間に底から気泡が吹き上がっております」
ユリウスの言葉に、食堂の空気が凍りついた。
彼は流れるような動作で私の皿をスッと持ち上げる。
「おそらく、皿の底面だけが異常な高温に達しているのでしょう」
ユリウスがナイフの先を皿の裏に這わせる。そこには、磁器の白さに不釣り合いな、真っ赤に輝く小さな石が張り付いていた。ユリウスがそれを鋭く剥ぎ取ると、石はカチリと乾いた音を立ててテーブルに転がった。
「これは……『発熱魔石』か?」
伯爵が身を乗り出し、その石を凝視する。
魔石は、衝撃を与えられるとたちまち急激な熱を発するという希少なものだ。厨房で料理を保温するために使われることもあるが、こうして「客に供する皿の裏」に仕込まれることなど、事故ではあり得ない。
「……発熱魔石。本来、軍事用の携帯食を温めるためのものでございますが。これがなぜ、ロザリア様の皿の裏側にだけ、強力な粘着剤で固定されているのでしょうか?」
ユリウスが言い放つ。その声はどこまでも鋭く、冷たい。
「……ロザリア様。貴女はきちんと温度を確認しておられました。ですが、この石が仕込まれていたなら、給仕がテーブルに皿を置くことにより衝撃が伝わり、反応が激化。底の熱が急上昇し、磁器の取っ手まで一気に加熱されたはずです。……貴女の反応は、正当な自衛でございましたよ」
ユリウスが、私の目を見つめて静かに告げる。
その瞬間、私の背筋を走ったのは恐怖ではなく、ゾッとするような昂揚感だった。
一周目の失敗。あの時、私が皿をひっくり返したのは、ただの不注意ではなかったの?
誰かが――おそらく、エミリアが息を呑む音が聞こえた。
ブックマーク、感想、評価、レビュー等お待ちしております!




