冗談です、ロザリア様。
夜会の喧騒が遠のき、静まり返った自室。
私はドレスのまま、部屋の中央で立ち尽くしていた。背後で「カチリ」とドアが閉まる音が、まるで裁判の始まりを告げる合図のように聞こえる。
「……さて。ロザリア様」
振り返らなくてもわかる。ユリウスの声は、夜会の会場にいた時よりもさらに数度、温度を下げている。
「な、なによ……。完璧だったでしょう!?エミリアは自分の吐いた嘘で自滅したし、私は一度も取り乱さなかったわ!何より、エミリアは今頃お父様に叱られているわ。あのエミリアが、よ!」
精一杯の虚勢を張って振り返る。けれど、そこに立つユリウスの無機質な瞳を見た瞬間、私の心臓は嫌な音を立てた。
「会場で申し上げたはずです。『夜会が終わるまでその仮面を維持できれば』と。……ですが、ヴィルヘルム殿下に手を取られたあの瞬間。貴女の顔は、一体どうなっていたか自覚がおありですか?」
「それは……っ、殿下が、あんなに真っ直ぐ褒めてくださるから……!」
「頬を染め、視線を泳がせ、だらしなく口角を緩ませて……。あれで仮面を維持したつもりとは、恐れ入ります。私の目には、ただの安っぽい小娘が、好いた男の甘い言葉に中身までドロドロに溶かされている無様な姿にしか映りませんでした」
ユリウスは音もなく歩み寄り、私の至近距離で足を止めた。彼の纏う圧倒的な威圧感に、私は思わず一歩後退りそうになる。
「し、ししし、仕方ないでしょう!!」
あまりの剣幕と図星すぎる指摘に、私の舌はこれでもかというほどもつれた。
「あ、あの殿下よ!?あのキラッキラの笑顔のヴィルヘルム殿下なのよ!? 私、これまでの人生であんな眩しい肯定を浴びたことなんてなかったんだから、ちょっとくらい顔がとろけたって、それはもう生理現象みたいなものよ!」
私は真っ赤な顔で、もはや令嬢らしからぬ身振り手振りで必死に弁明した。
しかし、ユリウスはぴくりとも動かない。相変わらず、深海のように静かで、底意地の悪い冷徹な瞳が私を見下ろしている。
「……生理現象、ですか」
「そ、そうよ! 反射よ、反射! むしろあそこで真顔でいられる人間なんて、心臓が鉄でできているあんたみたいな人外だけよ!」
ヤケクソになって叫ぶ私に対し、ユリウスはふっと影を落とすように、さらに一歩距離を詰めた。
長い指が私の耳元をかすめ、背後の壁にトン、と置かれる。……いわゆる「壁ドン」というやつだが、彼がやると甘い雰囲気など微塵もなく、ただの「逃げ場のない尋問」である。
「なるほど。ロザリア様の言い分をまとめると……『私は殿下の笑顔に弱いチョロい女なので、今後も彼に褒められるたびに隙を晒し続けます』という敗北宣言、ということでよろしいですね?」
「だ、誰もそこまでは言ってないでしょう!?」
「いいえ、言っているも同然です。」
ユリウスは私の前髪を、これ見よがしに冷たい指先で整えながら、耳元で低く囁いた。
「――では、次はどうします?今後、より巧妙に近づく敵にも、同じように頬を染めるおつもりですか」
「なっ、そんなつもりは――!」
「では証明していただきましょう。……“表情訓練”です」
困惑する私を余所に、ユリウスは空いている方の手で、私の顎をぐいと引き寄せた。あまりに突然のことに、私の心臓が「ドクン」と大きく跳ねる。
「な、ななな……っ」
「ほら、またすぐに顔に出る。……ヴィルヘルム殿下の時と同様、やはり『茹で上がった蛸』のようですね。完璧な淑女とは程遠い」
彼の指先が頬に触れる。何かを確認するような動作。
「やはり、まだ矯正の余地がありますね」
「矯正って……な、何を言ってるのよ!」
「誤解なさらず。教育です。――貴女が他人の言葉に惑わされぬよう、徹底的に叩き込むだけの話です。」
ユリウスは冷酷に言い放つと、私の顔をじっと覗き込み、形の良い唇をわずかに歪めた。
「他人の甘い言葉など、私の無慈悲な説教に比べれば欠伸が出るほど退屈だと、心底理解できるまで叩き込んで差し上げます」
「そ、そんな教育ある!?」
「効果は保証しますよ」
無表情のまま淡々と告げるユリウス。
「さあ、練習です。今から私が、貴女が気絶したくなるような賛辞を百通り、この距離で囁き続けます。……一瞬でも顔を赤らめたら、最初からやり直しですよ」
「……正気なの!?あなた、そんなキャラじゃないでしょう!」
「教育のためなら、どのような役柄も演じてみせる。それが執事というものです。……さあ、背筋を。特訓はまだ始まったばかりですよ」
いきなりなに!?!?怖い怖い怖い怖い!!
…と、思ったのも束の間。ユリウスは突然、「ふっ」と嘲るように鼻で笑う。実に腹の立つ笑顔だった。
「……冗談ですよ」
至近距離で見つめていたユリウスが、ふっと視線を外して体を離した。
それまでの逃げ場のない熱が嘘のように、室内にいつものひんやりとした空気が戻ってくる。
「……じょ、冗談?」
拍子抜けした私の前で、彼は何事もなかったかのように手袋の皺を整え、完璧な執事の立ち居振る舞いに戻っていた。
―――ってことは私は今、こいつにまんまと弄ばれてたってこと!?
「いくら教育のためとはいえ、私がそんな……心にもない甘言を並べ立て続けるなど。……気色の悪い。想像しただけで背筋が凍ります」
「はぁ!?さっきまでノリノリで私を引き寄せておいて、何よその態度は!!」
茹であがった私の顔をよそに、彼はフン、と鼻で笑った。
「あまりに無防備な顔をされていたので、少しばかり刺激を与えれば目が覚めるかと思ったのですが。……どうやら逆効果でしたね。これほど簡単に赤くなるようでは、特訓以前の問題です」
ユリウスは無表情のまま、けれどその瞳の端には、明らかに私をからかって楽しんでいるような色が滲んでいる。
「その頬の赤らみは、私への憤慨によるものですか? それとも恥じらいによるものですか?」
「……っ、あんた! 本っっっ当に性格が悪いわね!!」
「執事にしてみれば、最高の褒め言葉ですね。ありがとうございます。……さて、ロザリア様。冗談はここまでにして、現実に戻りましょう。今夜の醜態、逐一記録してあります。朝までに反省文を」
「記録?反省文!?ちょっと、待ちなさいよ!!」
彼はそう言って大量の反省文用の紙を取り出すと、形の良い唇をゆっくりと吊り上げる。まるで悪魔だ。
私は慌てて話題の転換を試みた。
「でも分かったでしょう!? エミリアは悪女で、私のことを陥れようとしているのよ!こうやって少しづつ私の評判を落として、最後は裏切るつもりなの!」
私が必死に訴えると、ユリウスは手にしていた反省文用の紙を、音もなく机に置いた。
その瞳はどこまでも冷静で、私の熱のこもった言葉をあざ笑うかのように静かだった。
「……確かに。少々驚きました。エミリア様があそこまで厚顔無恥で、狡猾な牙を隠し持っていたとは。……正直に申し上げれば、私の認識が甘かったようです」
「でしょ!!」
「彼女の清廉さは、あくまで周囲を欺くための徹底した演技だったというわけですか。……あのような粗末な嘘を平然と並べ、ロザリア様を社会的に抹殺しようとするその執念。人間の悪意というものは、時として私の想像を超えてくる。」
ユリウスは私の目の前まで来ると、冷たい指先で私のこめかみを軽く叩いた。
「……ですが、エミリア様が悪女であることなど、私にとっては天気の話と同じくらいどうでもいいことなのです。重要なのは、彼女に陥れられた時、貴女が『完璧な淑女』としてそれを踏みにじれるかどうか。……それだけです」
あまりにも冷徹な彼の言葉。
けれど、その冷たさが今は、甘いだけの慰めよりもずっと信頼に値するように感じていた。
「…兎にも角にも、です。ロザリア様に忠誠を誓った限りは、私も相応の仕事をいたしましょう」
ユリウスはふっと視線を落とし、私の手を取った。
「私の求めるレベルに到達できない『出来損ないの令嬢』のままでいられるなら、私はいつでも貴女の隣から消え去りましょう。……私が仕える価値のない主人に、この身を捧げるつもりはありませんから」
「っ……」
彼は顔を上げ、私を射貫くように見つめた。その瞳には、厳格な教師のような鋭さと、獲物を定める獣のような熱が混ざり合っている。
「ですが、貴女が今夜見せたその『牙』を磨き続けるというのなら。……このユリウス、地獄の果てまでもお供いたしましょう。貴女が誰を、どのように地獄へ突き落としたいのか。その望みを叶えるための『手足』として、私を存分に使い潰してください」
「…ふんっ、上等よ。捨てられる前に、貴方に『最高の主人だ』って跪かせてやるんだから」
私が唇を噛み締めて睨み返すと、ユリウスは満足げに目を細め、再びあの冷徹な鉄面皮に戻った。
「威勢だけはよろしいですね。では、その意気込みを維持したまま、反省文に取り掛かってください。
「……本当に、可愛げのないヤツね」
「光栄です。……さあ、無駄話で時間を稼ぐのはそこまでです。反省文の一行目は『私はヴィルヘルム殿下の前で、だらしなく鼻の下を伸ばしました』から始めてください。」
「伸ばしてないわよ!!」
「さあ、机へ。……ああ、言っておきますが、少しでも筆が止まったら、先ほどの『冗談』の続きを実行いたしますので。よろしいですね?」
「〜っ!!よろしいですね?じゃないわよこの意地悪執事!!」
罵倒を叫びながらも、私はペンを走らせる。
不思議なものだ。隣には世界一可愛げのない教育係が立っていて、書かされているのは自分の失態を並べた恥ずかしい反省文だというのに。
一周目の、あの暗い牢獄で感じた絶望や孤独は、もうどこにもなかった。
カリカリと紙を撫でるペンの音と、時折重なるユリウスの「そこ、インクが溜まっていますよ」という容赦ない指摘。
窓の外、夜の闇が少しずつ白み始めるまで、私の過酷な戦いは続いた。




