第87話 天使泣かせのエリコの大虐殺
黒須は黒板に「エリコの戦い」と書いた。
「このエリコ、世界最古の町と呼ばれることもある。海抜がめちゃくちゃ低い所だ。で、紀紀元前8000年には、周囲を壁で囲った集落が出現していた。周囲を囲った壁……これがいわゆる「エリコの壁」だ。難攻不落で、決して崩れることがない壁と言われていた」
「先生、そんな頑丈な壁を全力で壊して中に入ったんですか?」
「わたしは、奇跡起こしたんじゃなかと思うわ? ほら、モーセの後継者、ヨシュアだっけ? ヨシュアが神に祈ったとか」
「いや、ヨシュアはモーセみたいに奇跡は起こせないだろう。腕力だよ、力づくで壊した」
黒須の授業は、生徒が自由にしゃべり過ぎる傾向にあるが、黒須はそれを止めない。
「いやぁー、君たち、いい線いってるぞ。天才だなぁ。正解は……両方。壁を壊したのは神の力、その後は人の力だ」
黒須は続けた。
「実はな、ヨシュアは前もってスパイを二人、エリコの町に送ったんだ。このスパイ、怪しまれないように、娼婦のラハブの家に泊まった。まぁ男が娼婦の家に泊まるのは不自然じゃないからね。怪しまれないと思ったんだろう。
でも、バレた。
ところが、この娼婦はこのスパイを逃がすんだ。
どうってことない話だが、この娼婦は後に信仰心が芽生えて、イスラエル民族と結婚し、その血統がダビデ、ソロモン、イエスとつながっていく。結構重要な人物だ。
あまり、紹介されないけどな」
「重要なってことは、活躍したんだね」
と、ある生徒がつぶやいた。
黒須は、その意見に答えを出した。
「答えはノーだ。ただ逃がしてくれただけ」
「じゃあ、どうやって攻略したんですか?」
「うん、結局、神が勝たせてくれたからだ。ヨシュアに神から不思議な啓示が降りたんだよ。よしVR,スタート」
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―『ヨシュアよ、ヨシュア。
おまえたちみんなで、エリコの町の周りを行進しろ。
6日間、毎日1回、契約の箱を担いで行進しろ。
そして7人の祭司が契約の箱の前で角笛を吹くのだ。
その行進の間、ひと言も発してはいけない。
声を出していいときが来たら、わたしが言うから。そのときは全員で鬨の声を上げるのだ』
ここで出て来る契約の箱とは、十戒が刻まれた石板を収めた箱のことで、ソロモンの秘宝とも呼ばれる。
「映画で見たことある」
「都市伝説でも、アークって出て来るぞ」
黒須が解説した。
「想像してみてくれ。君たちは、今、籠城している側のエリコの住民だ。
エリコの住民からしたら超不気味じゃないか?
毎日毎日、町の周りを無言でぐるぐる回るイスラエル民族200万人たちだぞ」
「こえーよ」
「不気味だわ」
「ここからは、聖書の一節を読んでみよう。
『翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ、七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ。
武装兵は、更にその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。
彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、彼らは六日間繰り返した。七日目には朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七周回った。
この日だけ町を七周した。
そして七周目、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。
―『鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた』
―「この町とその中にあるものを、滅ぼし尽くし、主へのささげ物とせよ。
ただし、遊女ラハブとその家にいる者は皆、生かしておきなさい。彼女は私たちが遣わした使者をかくまってくれたからである。
あなたたちは、滅ぼし尽くすべきものに手を出してはならない。
滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ』
『角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。
民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。
彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。
彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた』
――ヨシュア記6章12~24節から抜粋
黒須は、聖書を教壇に置いて、話を続けた。
「要するに、神の導きによって、約束の地カナンにイスラエルの民が移住するために、その途中にある城塞都市エリコをまず占領しなければならない。その様子を記したのがこのヨシュア記6章だ」
皆、言葉を失い、教室は静寂に包まれた。
ルカには、黒須の心の内を想像して、胸が痛くなった。
黒須はすでに、長子皆殺し(第十の災厄)、ノアの洪水など、天界の非情さを経験している。
つまり黒須は、天界の“暴力のある歴史”を現場で見てきた当事者だ。
黒須は静かに話し始めた。
「殺すなかれ……、十戒にあった言葉だ。それなのに、イスラエルの民はエリコの町に攻め入り、老若男女や家畜まで、あらゆる生き物を剣にかけて命を奪った。
だが、問題はそこじゃない!」
黒須の心の内を心配していたルカは、びしっと姿勢を正した。
「実はな、1950年代に考古学的発掘が行われたんだ。
それによると、エリコの城壁の崩壊は紀元前3000年紀の出来事であることが実証された。つまり、ヨシュアたちがエリコに来たときには、エリコはすでに廃墟になっていたことだ。したがって、ヨシュア記6章に記されているエリコの陥落物語は歴史的事実ではなく、原因譚として後から創作されたと考えられる」
生徒たちから安どの声が漏れた。
「「「なぁーんだぁー!」」」
「勘違いするな。壁が崩壊したのは創作かもしれないが、虐殺が無かったとは言っていない」
生徒たちが再び恐怖で顔を歪めた。
「いや、無かったかもしれないなぁ。さて、問題です。エリコの大虐殺が仮に創作だったとして、『実際は、そういう事実はなかったじゃん。良かったー』という結論にならない」
生徒は意味がわからないという風に、首を傾げた。
「もし、エリコの大虐殺が事実でなければ、なぜそのような大虐殺があったなどと聖書に記録したのか? それとも、十戒で『人を殺してはならない』と命じた神は、エリコの大虐殺を「特例」として、無罪としたのか? 皆がそれぞれ考えて答えをだしてごらん」
ダニエルが手を挙げた。
「黒須先生は、どう思いますか? 先生の考えを参考までに聞かせてください」
「……俺か? 過去を美化して隠すと、同じことをまたやるバカが出る。だから書き残したんじゃねぇか?」
ウリエルがルカに囁いた。
「……黒須先輩……珍しく真面目……っすね」
「うん」
黒須は続けた。
「正しい心で戦っても、戦場じゃ結局……誰かが泣く。だから書き残すんだよ。“英雄の影にどれだけの血が流れたか”ってな。」
黒須は、ゆっくり教室を歩きながら話した。
「ヨシュアがエリコを落とした後、イスラエルは念願の約束の土地を手に入れた。その後どうなったか。まだ授業では先の話なので、詳しくはやらないが……、軽く予告だけしておくと……」
教室が静まり返った。
「土地を手に入れたイスラエル王国は……いずれ滅びる」
誰かの声が聞こえた。
「え……?」
「イスラエルは北と南に分裂する。そして、北はアッシリアに、南はバビロンによって滅ばされる。戦争で奪った土地は、戦争で奪われる。歴史じゃ定説だ。」
生徒たちは息を呑んだ。
「暴力で奪ったものは、暴力で失うってことだ。……正直言ってな。俺はこの“皆殺しの記述”は、昔から大嫌いだった」
教室のどこかで小さく息を呑む音がした。
ルカだ。
「天界はいつも言うんだよ。“正義のためだ”、“神の計画だ”、“これは人々を守るためだ”ってね」
黒須は、机を軽く叩いた。
「でも、現場で血を見るのは、正義を掲げて高みから命令する連中じゃねぇ。そこに立ってた兵士や……泣いてる子供だ」
その言葉で、ルカがわずかに肩を震わせた。
ルシファーが居眠りから目覚めて、泣きそうなルカを見て心配した。
「あれー? どうしたの? ルカちゃん……黒須にいじめられたの?」
「……大丈夫です」
「あら、あら、目に涙を溜めちゃって……。おい、黒須、ルカ先生が泣いてるぞ。お前、何した!」
生徒たちは、いっせいに振り向いて教室の後ろを見た。
「ああ、……、悪い」
ルカは視線を落し、肩を震わせていた。
「知ってる……。天界だって……なんでもかんでも“正しいことをした”なんて思ってない……!」
ルカの瞳は涙がたまって、今にもこぼれそうだった。
ウリエルは心配して背中を撫でた。
「ルカ先輩……」
生徒たちは静まり返り、誰も声を出さない。
ルカはゆっくりと続けた。
「……さっき言ったわよね。『暴力で奪ったものは、暴力で失う』って」
「ああ」
ルカは涙をぬぐい、強がるように、しかし震える声で言った。
「そこまで言ってくれてありがとう。黒須先生。エリコの戦いは、大虐殺で話が終わりじゃない!」
「……ルカ?」
「天界と地獄の黄金のルール、神の秘儀を特別に教えてあげましょう」
ルカの瞳は、まっすぐだった。
黒須はこの天使の真っ直ぐな視線に、ハートをえぐられた。
「この国の為だ、この民族の為だ、……君の為だ、そういう人間は、君の事なんてひとつも考えていない。たとえ神でもね」
黒須は、しばらく黙ったあと、ようやく言葉を返した。
「……そうだけど。君が言っていいのか? ルカ」
ルカはほっとしたように瞬きをし、顔を赤くして俯いた。
「……」
ルシファーがルカにハンカチを差し出した。
「ルカちゃーん、黒須の言葉に揺れないでよー? さっきから泣いてるんだもん」
「泣いてねーってば! 物語はこれからも続くのよ! さっきの黄金のルールは覚えときな!」




