第81話 【第十の災い】長子皆殺しの夜
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深夜、風は無い。
エジプト全土が“息を潜めたような暗闇”に包まれていた。
月は厚い雲に隠れ、星の光さえも地上に届かない闇だった。
その夜、静寂の底を裂くように、一つの悲鳴が響き渡った。
―「た、助けて……! うちの子がぁ……! やめてーーーー!」
家の扉を叩き破る音。
泣き叫ぶ母親。
立ち尽くす父親の手から、力なく垂れ下がる幼い長子の身体。
―「長男が死んだ!」
―「うちもだ……! 長女が……!」
次々に人々が外へ飛び出し、町はあっという間に“絶望の叫び”で満たされていった。
泣き声は村から村へ、街から街へと広がり、ついには王宮にも届いた。
王宮の最も高い塔の窓からも、ファラオの叫びが聞こえてきた。
―「な、なんということだ! 我が子が……!」
その夜、エジプトのすべての家の長子が死んだ。
王族から貧民に至るまで……、エジプト人は誰ひとり逃れられなかった。
そして、前々からこの災いが来ることを知っていたイスラエルの民たちは、玄関の鴨居に羊の血を塗り、赤く染めて目印をつけておいた。
「この目印があるいえは襲わない」
神とイスラエルの民との約束だった。
ふと見ると、暗闇の路地裏に……、ひとりの影が立っていた。
黒いコートに身を包み、肩に月明かりすら落ちないほど、闇と同化した黒い翼。
その男は、ある家の戸口にそっと手をかざし、目を閉じた。
―「……また一人、消えたか」
その家の中から、かすかな魂の光がふっと消えた。
そして代わりに、母親の悲痛な叫び声が夜の村に響き渡った。
男の名は、……黒須サトル。
かつて天界に属していたが、今はどの組織にも属さない完全“フリーランスの堕天使”だ。
黒須はため息をついた。
―「……子供ばっかり殺す仕事なんざ、やりたくねぇよ。でも、命じられたんだから、やるしかねぇんだろ? 天界のやり方は、いつだって容赦がない……」
天界からの依頼はこうだった。
―「長子に命の狙いを定め、天界の裁きを下す“実行者”を探している。印のある家は襲わない事。所属を問わない……報酬は、前金で」
黒須は断ろうとした。
だが……
―「……この災いが止まらなきゃ、イスラエルの民は一生奴隷のままなんだろ。だったら、誰かがやらなきゃ、終わんねえな」
黒須は自嘲気味に笑った。
(……俺はいつも現場で泥かぶる役回りだよなぁ……)
だが、依頼は“ただの作業”ではなかった。
天界から渡された指示書には、こう書いてあった。
《イスラエルの家の戸口には“血の印”がある。決してそこには入らないように》
黒須は理解した。
―「ほう、つまり……俺は“マークのない家にだけ行け”ってことかよ。なるほどね。天界の連中は、本当に……効率第一だな……」
しかし、その「効率的な裁き」が、エジプト全土の夜を地獄に変えた。
黒須の脚が止まった。
ある家の前に立ったとき、黒須は天界から依頼された仕事に、一瞬迷いが生じた。
戸口の向こうには、小さな息遣い。
幼い長子が、母親の腕の中で眠っている。
母親の手が、必死にその子の髪を撫で、何度も祈りの言葉をつぶやいていた。
迷いを断ち切ろうとすればするほど、母の祈りは黒須の胸を締め付けた。
―「…………」
黒須は、拳を強く握った。
―「……神様よ。本当に、こんなやり方しかなかったのか? 俺、あんたのやり方……やっぱ好きになれねぇよ」
それでも任務を遂行する。
フリーランスの稼ぎは、贅沢はなくても“生きるためには必要”だった。
―「悪ぃな……。俺がやらなきゃ、別の誰かがやるだけなんだ……。汚れ役、バンザイ」
彼が目を閉じて剣を振ると、またひとつ、命の灯が消えた。
そして、夜明けが近づく頃……
町中、人々の泣き叫ぶ声で満ちていた。
黒須は高い屋根の上に降り立ち、広がる惨状をじっと眺めていた。
―「……やりたくてやったわけじゃない。天界のやり口に従っただけだ」
そう自分に言い聞かせても、胸の中の重さは消えなかった。
―「……これで、モーセたちはエジプトから解放されるのか。これで、あいつらは自由に……なれたってことか。よかった、よかった……」
王宮の方で、ファラオが膝をつき、泣きながら叫んでいた。
―「出て行け……! イスラエルの民もモーセも、お前ら全員、すぐに出て行け!! もう顔も見たくない……!」
ひどい夜だった。
だが、これでモーセたちは自由になった。
夜は明けた。
優しい風が吹いて、新しい太陽の陽に、黒い翼が揺れていた。
―「俺は……何してんだろうな。こんな仕事して、何が残るんだよ……」
だが次の瞬間、黒須は小さく笑った。
―「……これっきりだ、こんな仕事は。俺はもう、誰の命令も聞かねぇ。今日から本当に“フリー”でやる」
その夜……、
黒須の心の中で、“天界とも地獄とも縁を切る決意”が固まった。
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画面が真っ白になり、今日のVR授業は終わった。
黒須は聖書を閉じて授業の終わりを告げた。
「はーい、十の災いについてVR授業しましたー。ここは、まぁ、こんなことがあったんだねぁって感じでいいぞー。あまり覚えてなくていいからな―。怖くて目を背けてしまっても、評価に響かない。安心しろー。はい、終わりまーす」
普段はチャイムが鳴っても、生徒から質問があれば丁寧に答える黒須だが、この日はさっさと教室を引き上げた。
ルカとウリエルが、一生懸命黒須を追った。
「待って、黒須先生! 質問があるみたいですよ」
「それは、生徒か? 君たちか? どっちにしても質問は受け付けない。全てノーコメントだ!」
さっさと廊下を急ぐ黒須を、ルカは追いかけた。
「ちょっと、逃げる気? まだ何も聞いてないじゃない。卑怯者!」
ウリエルは、そっとルカの袖を引っ張って引き留めた。
「ルカ先輩、待って。この先も追いかけます? たぶん、黒須先生は逃げたっすよ」
「どこにっ!? どこに逃げたって追いかけるわよ!」
「男子トイレっすけど……」
「腹が痛いのか、あいつ……」
ルカは足を止めた。
「一生トイレに引きこもるつもりか? お腹の弱い堕天使めーー!! 」
「いや、先輩、それ違いますって」
すると、男子トイレからルシファーが出て来た。
「あれー? ルカちゃん。トイレの前でわたしを待ってたの?」
「んなわけねーだろ」
「ううーん、君のなじる声……もっと聞きたい。あ、そうそう、黒須なら、個室で泣いてるみたいだったよ」
「は?」
ルシファーは、ルカに優しく囁いた。
「なんでも……、訳ありの過去。どうしても授業で晒さなければならなかったんだって? 黒須のこと、わかってあげてよ。君たち天使だろ?」
ウリエルはルカの袖を、もう一度引っ張った。
「行きましょう、ルカ先輩。黒須先生は今、B級映画の主人公になり切ってるんです」
ルカとルシファーは、異を唱えた。
「「いや、それはないと思う」」




