第76話 ヤコブがイスラエルになった
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VR授業は、兄エサウ側に場面が切り替わった。
エサウは、弟のヤコブが父イサクを欺して祝福を勝ち取ってしまったことを知らない。
そこで、意気揚々と狩りから帰ってきて、今にも死にそうな爺さんイサクに駆け寄った。
―「今日はいい日ですね、運が良かった。いい獲物が取れましたよ! お父さん、お待たせしました! ほらね、いい獲物でしょう! さあ、おいらに祝福を与えてください!」
―「ほ、ほええ〜! わしはもう祝福を与えてしまったぞ。じゃあ、さっきのあれは、あれは一体誰だったんだ?」
―「え、えええーー!!! マ、マ、マジっすか?! 誰って、家督をもらって喜ぶやつって、俺の他にヤコブしかいねーだろ! くっそぉー、ヤコブめ……。でもとうさん! 約束を守ったのはおいらだし、とりあえず、おいらも祝福してくださいよぉ!」
―「ご、ごめん、ならんのじゃ、エサウ。祝福は一回きりと決まっておるのじゃよ」
―「いやいやいやいや、ちょっと待って。それじゃ、あんまりじゃないっすかーっ! ズルくないっすかぁー?」
―「すまんのぅー、ヤコブに全部与えてしまった……。お、そうだ! いい考えがある。お前は弟のヤコブに仕えればよいではないか……。な、な、ええ考えじゃろ?……」
―「そんなによくないと思う。何すか? 同情っすか? 同情するなら家督をくれ!」
旧約聖書時代の祝福とは、子孫の繁栄、土地の継承などの、神との約束を言い表すものだ。
よって、絶対取り消せないし、一回しかできない。
ヤコブを祝福してしまったイサクは、エサウに祝福を与えられない。
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ここで、黒須はルカに確認した。
「ルカ先生の説によると……、これ、やっぱり……、父イサクも猿芝居しているってことかな?」
ルカは小さく頷いた。
「たぶん……そう」
ルカは小さく返事した。
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エサウは激怒した。
―「ヤコブ……、ぶっ殺す!」
エサウの様子を見ていた母リベカは、慌てて物陰でヤコブに教えた。
―「ヤコブ、大変よ、あんた殺されちゃうわ」
―「だから、言ったじゃん! 母さん、僕はどうしたらいいの?」
―「ほとぼりが冷めるまで、母さんの実家に逃げてればいいわよ。エサウはバカだから忘れるわよ……」
―「でも、母さんの実家って遠いじゃん。いつまで、逃げてればいいの?」
―「大丈夫、エサウは単細胞だからすぐ忘れちゃうって。母さんの兄、ラバン叔父さんを頼りなさい。さ、さ、急いで逃げるんだよ」
こうして、ヤコブは家から逃げ出した。
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黒須は、頭をボサボサかきながら呆れたように、解説した。
「いや〜、しかし母さんもひどいよな。『エサウはすぐ忘れちゃうわ』だってさ。
結局、ヤコブは20年も帰れなかたっんだよ。当時、二十歳の若者だったとしたら、四十歳のおっさんになるまで帰れなかった。ルカ先生の言った通り、家族全員グルで、エサウを追い落としたとしたら、とんでもねー償いだ。そう思わねーか?」
「知らないわよ」
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ヤコブは逃げた。
母の故郷へと逃げているその途中のことだった。
ヤコブは、荒野で野宿しているとき、天まで届く階段の夢を見た。
その階段を天使たちが上り下りしていた。
そして神の声を聞いた。
―「ヤコブよ。わたしは今お前がいる土地を、お前とその子孫に与える。子孫は砂粒のように増え、各地に広がるであろう」
―「なんて恐れ多いことだ。この場所は天の門なのか。神の家だ」
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黒須は解説した。
「ヤコブはひれ伏して、枕にしていた石を記念碑として立てた。ちなみにこのベテル、今のテルアビブと死海の間にちゃんとある」
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その後、母の故郷に着いたヤコブは、叔父さんの娘、ラケルに一目ぼれをした。
ヤコブが叔父さんの元で働いていたら、聞かれた。
―「ヤコブよ、うちで働く代わりに報酬を払うけど、何がいい?」
―「ラケルをください。そのかわり7年間タダ働きします!」
―「マジで? 7年間タダ働き? それでいいの?」
叔父さんはタダ働きという言葉に大きく頷いた。
そして、ヤコブは本当に7年間タダで働いた。
ヤコブがいざ婚礼の儀をこなし、朝、妻の顔を見ると……、
花嫁はラケルの姉レアであった。
―「なんだよぉー! 結婚詐欺じゃーーん!。叔父さんひどい! 7年もがんばったのに、欺すなんてあんまりじゃないですか!」
―「すまん、ヤコブ。妹が姉より先に嫁ぐのは、この村じゃ御法度でな。妹のラケルも欲しいなら、あと7年働いてくれ」
ヤコブは仕方なくあと7年働いた。
ようやくラケルと結婚して、二人の間に出来た子どもは、ヨセフと名付けられた。
ただ、その後もいろいろと叔父さんたちとうまく行かない。
そこでヤコブは決心した。
自分の家族を連れてこの地を離れ、元いた場所「約束の地カナン」に戻ろうと。
しかし、ヤコブは兄のエサウが怖かった。
父イサクの祝福をエサウから欺し取った事件から、20年近く経っていたが、まだエサウが怖かった。
―「きっとまだ兄さんは、怒ってるだろなぁ。だってあのとき『ぶっ殺す!』って言ってたし……」
怖かったから、先発隊にたくさんのヤギ・らくだ・牛・ロバを持たせ、贈り物としてエサウに差し出そうと隊列を組んで、先に行かせた。
その夜のことだ。
ふぢ義な何者かが、ふいにヤコブの行く手に立ちふさがった。
―「おまえ、邪魔だ。どけ!」
ヤコブがそう言ってもどかない。
―「……」
―「じゃ、お前を倒してやる」
―「……」
ヤコブはそう言って、謎の人物と取っ組み合いになった。
ヤコブは兄のように逞しい体ではなかったが、こっちは妻子を連れている。
必死に取っ組み合いを続けるしかない。
そして、夜明け近くまで、激しく格闘していた。
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黒須が解説した。
「その相手がなんと、神、あるいは天使だった。言い方を変えれば、天使か神の癖に、人間ヤコブを倒せないんだ。朝まで闘って、『こりゃキリがない』と思った神は、こう言ったんだ。
『夜が明けるから、もう勘弁してくれ』
……これで、合ってるか? ルカ先生」
ルカは天界のファイルをめくって答えた。
「まあ、だいたいそうです」
黒須は肩をすぼめて、呆れかえった。
「っていうかさぁ。まずは、急に組み付いてきた理由を言え!って話だよな。
ヤコブはこう言ったんだ。『おまえがわたしを祝福するまでは離さない』ってな」
「ずいぶん上から目線ですこと」
「うん、ルカ先生。それな」
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VR授業の神か天使は、ヤコブにこう返した。
―「おまえの名はなんというのか」
黒須は小声でツッコミを入れた。
―「名前も知らんかったんかい!」
ヤコブは答えた。
―「名前? ヤコブだ」
―「では、このあと、おまえはイスラエルと名乗るがいい」
ヘブライ語で神の事を「エル」、勝利することを「イシャラー」。
つまり、「エル」に「イシャラー」したので、イスラエルというそういう名前を彼はもらった。
ヤコブは、さぞツッコみたかっただろう。
―「いや、勝手に勝負を挑んできたのは神、あんただし! これって名誉なのか?」
この名を得て、ヤコブはイスラエル12部族の始祖になる。
黒須はまとめた。
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「これがこのストーリーの全貌だ。イスラエルというのはヤコブがもらった名前から始まる。まさに、イスラエル・ユダヤの人の祖先。ああー、ここまで長かったなぁ。お前らもそう思ったろ、よく眠れたか」
だが、生徒の反応は違った。
「「面白ーい!」」
「寝る暇なかったー」
特に、マルとイワン、ダニエルは、内容について議論していた。
「っていうか、なぜ組み合うんだ?」
「なんで、あれで勝ちになる?」
「なぜ改名する必要ある?」
「相撲で、四股名をもらうようなもんじゃね?」
「あ、言えてるかも。マルって天才!」
「アホか、お前ら」
黒須は、無理に納得させようとはしない。
「そこな! 先生もそう思うんだ。このストーリー。何が言いたいのか、ちょっとわかんないんだよなー」
その声に、ルカの胸がきゅっと締めつけられた。
(この人、またそうやって人間の側に立つ)
すると、背後からルシファーがくすりと笑った。
「あいかわらず“人類びいき”の堕天使だな。どうだ、ルカちゃん。君も少しは見習ってみたら?」
「あなたにだけは、言われたくないんですけど!」
ルカが睨み返すと、ルシファーは笑顔で肩をすくめた。
「怒った顔も可愛い」
「マジで殺すわよ」
「こわ〜い♡」
「おい、そこ! おまえら、授業中だぞ」
黒須の一言に、空気が凛と引き締まった。
だがルカは気づいた――黒須の声が、ほんの少しだが震えている。
(……嫉妬、してる?)
黒須のナレーションが再び響いた。
「神はヤコブの臆病かつビビリな性格を憂いていた。アブラハムから続く一族の長になるには、何かが足りない。だから、もっと自信を持たせてイスラエル民族の立派な祖にするために、神は無理やりレスリングして負けた。……というのは、俺の勝手な想像。ここは覚えなくていいからなー」
光が収束し、VR空間がゆっくりと消えていった。
ウリエルの声が教室に響く。
「ふぅ〜、サーバー焼けるかと思った……! あぶねぇ!」
教室に照明が戻り、生徒たちは拍手した。
「イスラエルって、そういう意味だったんだ……」
「黒須先生の授業、映画よりおもしれーよな?!」
黒須はチョークを取り、黒板に書いた。
『イスラエル=神に勝った者』
その文字を見つめながら、ルカは小さく息を吐いた。
(……この人の教える“勝つ”って何だろう。天使には永遠にわからない?)
ルシファーがルカの隣で小声で囁いた。
「ねえ、ルカちゃん。君もいつか“神と戦う”ことになるかもよ」
「……そんな時は来ない」
「ほう……。もし、勝てたら、その褒美にキスしてやろうと思ったのに」
「だから、それは永遠にノーサンキュー」
「ふられた〜。やっぱりわたしより黒須か」
「……おい、そこのホスト。退場!」
「チッ、教師のくせに嫉妬深いなぁ〜」
教室が生徒たちの爆笑で盛り上がった。
ため息をつきながら、黒須は口元に小さな笑みを浮かべた。




