第74話 アブラハムを止めた天使
休憩をはさんで、VR授業は再開した。
ヘッドセットを着けると、生徒たちがいる教室は……、砂漠になった。
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「さっきの授業では、ノアの息子にセムって奴がいて、そのセムの子孫に、アブラハムという子どもが生まれるんだ。このアブラハムってのが、ユダヤ人の直接の祖先になっていくというワケ。ウリエル、空間に地図を出してくれ」
すると、空中にホノグラムで中東エリアの地図が浮かび上がった。
黒須は、その地図を棒で指し示した。
「ここから、族長アブラハムの話をするぞー。この男ね、だいたいこの辺にいたんだ」
地図を示して……、
「メソポタミア、今のイラクの辺り。ティグリス川とユーフラテス川の間だ。メソポタミア文明って習っただろ? アブラハムって男は、そこで羊を飼っている遊牧民の族長だったんだ」
マルが手を挙げた。
「先生、遊牧民って、いうことは移動するってことですよね」
「お、よく知ってるなマル。そうだよ。この男はな、ずっと旅していて、この辺に来るんだよ」
黒須は、エジプトのちょっと東側を棒で指した。
「ううーーーん……で? アブラハムって……結局、どこ人なんですか?」
黒須先生は地図を指しながら、にやっと笑った。
「いい質問だな。じゃあ逆に聞くぞ。アブラハムは、日本人か? フランス人か?」
教室がざわついた。
「正解は――“引っ越し魔”だ。
生まれはここ。今のイラクあたりの“ウル”。
でもな、神様にこう言われた。
『行き先? 着いてから考えよう』って。
結果どうなったか。
ウル → ハラン → カナン。
古代世界を徒歩で横断。
つまりアブラハムは、
国籍不明・住所不定・でも信仰だけはブレない男。
だから世界史的には、
『この人、どこの人?』じゃなくて
**『この人、どこ行った人?』が正解だ。」
生徒たちは笑い、誰かがつぶやいた。
「……人生、行き当たりばったりすぎません?」
黒須先生は即答した。
「そうだ。
だからこそ、三千年たっても教科書に残ってる。」
生徒たちは納得したような、疑問のような顔をして地図を眺めていた。
「シナイ半島。このシナイ半島って、今後もよく出て来るから、覚えろよ。注目エリアだ」
「「シナイ半島……」」
「何もしない半島……」
「お前、帰れ」
生徒たちは自然と復唱した。
「そこでだ。神と出会ったんだよ。このアブラハムって男。族長だったが跡継ぎに恵まれていなかった。実はな、すごい長生きして100歳のお爺ちゃんだった。奥さんはサラさんって名前で、90歳だ」
「えー、高齢で後継ぎがいないって、大変じゃん」
「そんなの、今の日本にいっぱいいるよ」
生徒の声に、黒須は頷いた。
「そうだな。現代の君たちには驚くことじゃないかもな。でも、当時としたら、大問題だったんだ」
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アブラハムは、嘆いた。
―「あー、わしら、子が出来ない」
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そのとき、陸上部のイワンがVR画面の端の方に、赤ちゃんを抱いた女の人を見つけた。
「先生! アブラハム、浮気してるんじゃないっすか?! サラ婆さんとは違う女のひととの間に、子供が生まれてますよ! ほら、後ろ!のあそこにいる」
「キャー、不潔よ! アブラハム、最低!!」
「爺さんでもいやーーー!」
女子たちがギャーギャーと、アブラハムを不潔だと批難し始めた。
「おいおい、落ち着け。当時はな、しょうがないから奴隷女を二号さんってことにするのは、当たり前だったんだ。男社会だ。妾がいて当然の世界なんだよ。奴隷女は男の子を身ごもった。イシュマエルという」
「先生、サラ婆さんがかわいそうです!」
「だよな、マリ。アブラハムだって、自分の愛している妻の子が欲しかったんだよ」
「本当?」
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ある日のこと、アブラハムが、とぼとぼとシナイ半島の荒れ地を歩いていたら、何かが燃えていた。
また熱血系のイワンが叫んだ。
「山火事じゃん! マル消しに行こうぜ!」
「ってか、これVRだし。天然ガスだと思うけど?」
アブラハムが近づいていくと、そこから声がした。
―「アブラハム。お前の望みを叶えよう。どんな望みだ」
生徒たちはツッコミを入れた。
「おい、いきなり神様が望みを聞くのか? 心の準備とかないの?」
「イワン、いちいちうるさい。黙れよ」
アブラハムに、心の準部は必要無かった。
―「ど、どんなって、……わしゃー跡継ぎがほしいなぁ」
―「よろしい。お前は世継ぎの息子を授かるであろう。あきらめるな」
―「ええ? 本当ですか? ところであなたはどなた様で?」
―「神だ」
―「おお、神のお告げか。それはありがたい……」
アブラハムは急いで帰って、サラ婆さんに、このことを伝えた。
すると、しばらくしてこの90歳のばあさんは身ごもった。マジかよ。
そして、男の子が産まれた。
―「玉のような男の子よ、あなた」
子どもはイサクと名付けられた。
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「先生、大人の勝手な都合ですね。最初の奴隷女に産ませせた子がかわいそう。立場が無くなるじゃないですか」
「気持ちはわかるよ、マリ。残念だが、結局のところ、奴隷女とその子は、追放されちゃうんだ」
「信じられなーい! 最低!」
マリが叫ぶと、それに同調した女子たちが、口々にアブラハムを非難した。
女子をなだめるには、男の黒須には無理だとみると、ルカが前に出て来た。
「はい、はい、はい、はい! わかるよー、だって最低だもんねこの男。アブラハムってさ、我が子欲しさにやること勝手だよねー。でもね、そうでもないんだよー。
このイシュマエルっていう子は、アラビアに逃げて行って、これがアラブ人の祖先になったという説がありまーす。アラブ人側から言うと、イシュマエルの子孫だから、自分たちはユダヤ人の親戚なんだ、と、言っているわけね。ね、歴史はうまくできているでしょ。無駄な事なんかひとつも無いの」
「アラブ人たちは、アブラハムと同じ家系だけど、分家みたいなのも?になったのかしら」
「するどい! あなた読みが深いわね。のちのイスラム教がこのイシュマエルの子孫から生まれるのよ」
「「「ほー、そういうことか……」」」
女子たちはなんとか落ちつきを取り戻した。
黒須は、ルカに小声で「サンキュ」とささやいた。
*****
VR画面で数年がたった。
イサクは可愛らしい少年に育った。
4歳か5歳のかわいい盛りになったイサクが、生徒たちの間を笑いながら走り回っていた。
その間、お父さんのアブラハムは神様に感謝の儀式を捧げていた。
自分の飼っている羊を殺して、台に乗せ、焚火で燃やして、煙が天に昇って行く。
それを神様が食べるという儀式だった。
ルシファーは得意な顔で生徒たちに解説した。
「ま、生贄ですね」
そして、数年後にまたお告げがくだった。
―「アアブラハムよ。久しぶりやなぁ」
―「あ、神様。いつもお世話になってます。今日はなんすか?」
―「羊は……、飽きたな」
―「ああ、やっぱ、飽きますよね。じゃ、今度は何にしましょうか」
―「そうじゃな……、お前が一番愛する者を差し出せ」
―「え……???」
アブラハムは一瞬考えた。
―「自分の一番愛する物? 者?」
VR画面は数日後に変わった。
夜明け前の風が、冷たく頬をなでていく。
砂漠の向こう、焚火の赤がちらちらと揺れていた。
アブラハムが、息子イサクの小さな手を握り、ゆっくりと歩いていた。
アブラハムは愛するイサクに言った。
―「イサク、お散歩に付いてきて偉いね」
―「うん」
そこは、試練の山“モリヤ”と言った。
いつも羊を生贄にする場所だった。
―「パパ、どうして、今日は羊がいないの?」
「ああ……今日の生贄は、神様が定めるからだよ。イサク、ここに寝なさい」
こうして、アブラハムは羊を殺す台に息子を寝かせた。
ルカと生徒たちは、丘の上からアブラハムとイサクの姿を見つめていた。
(これが“神の命令”?……子をいけにえに捧げる? 理解できない。こんな理不尽を、どうして神は望むのか?)
横に立つルシファーが、低く笑った。
いつもの白スーツではなく、黄金の鎧を身にまとい、天使の輪を光らせている。
堕天前の姿……神の右腕と呼ばれた時代の大天使ルシファーの姿をしていた。
「ほら、ルカ。出番だぞ」
「……何の話?」
「“アブラハムを止めろ”という命令が、さっき天界から降りた。天使エージェントとしての任務だ。君が行くべきだろう?」
ルカは目を見開いてルシファーを見た。
(何で? ルシファーは大天使の姿なの? 天界からの指令……? でも、これは授業。VR体験のはず……)
ルシファーは彼女の耳元に囁いた。
「迷っているのか? ルカ。君は“神の命令”を信じるのか、“自分の心”を信じるのか」
その問いが、ルカの心の奥を刺した。
(わたしは……)
だが、ルカの足は動かない。
視界の先では、アブラハムが祭壇に薪を組み、小さなイサクが不安そうにパパを見上げていた。
―「パパーっ!、羊はいないのー!?」
―「……神が、選ぶのだ」
アブラハムは震える手で、剣を取り出した。
その刃を息子の上に「やーっ!」と振り落とそうとしたその瞬間、天使が現れた。
VRの黒須だった。
教師ではない。太古の昔の黒須だ。
かつての天使の姿の黒須が、光の中から現れ、アブラハムの腕を止めた。
―「やめろ、アブラハム!!」
突然現れた、天使姿の黒須先生に、生徒たちは度肝を抜かれた。
私語も居眠りもする暇がない。
黒須の声は、雷のように山に響いた。
ルカは息を呑んだ。
アブラハムが振りかざした腕が、イサクの上に落ちる直前に、黒須の手がその剣を受け止めた。
金属がぶつかる音が、世界を裂いた。
アブラハムは目を見開き、膝をついた。
―「……あ、あなたは誰だ……?」
黒須は静かに答えた。
―「わたしは神の使い。神はおまえを試した。だが、もう充分だ。これ以上、人の愛を試すな。」
剣が砂に落ち、音もなく光の粒になって消えた。
アブラハムは涙をこぼし、イサクを抱きしめ、その腕は震えていた。
****
ルカは、ただその光景を見つめていた。
(……黒須先生、あなたが“神の命令に逆らった天使”だったって本当なの?)
ルシファーが肩をすくめる。
「まったく、お人好しだね。こうして、黒須先生は堕ちた。たかが人間の儚い命を守るために、神に背いてな。」
彼がいたずらっぽくルカを見た。
「そんな彼に、君は惚れたってことだよ、ルカちゃん。よく見ておいた方がいい」
「……何言ってるのよ!」
ルカは顔を真っ赤にして睨んだ。
「授業中よ、プライベートな事言わないでください」
「だって、見ればわかるんだもの。ルカちゃんの目、もう“天使”のそれじゃないもん。ああ、わたしじゃないのが悔しい」
ルカが息を呑んだその時、黒須がゆっくりと振り向いた。
琥珀色の瞳でルカを見つめた。
「……君が神に背く必要はない。汚れ役は一人でいい」
そして、この男、教師であることを忘れていなかった。
「てなことで、注目――! ここが一番違和感があるんだよなー。神様の命令だからって、息子殺すかって話。
アブラハムのやったことを、神は「素晴らしい」と褒めたたえたんだよなー。ありえないだろ。
それで、正式に神様とアブラハムが契約を結ぶことになった。神はこう言われた。
『アブラハム、お前の子孫は地球上にどんどん増えて行く。わたしはお前に土地を与える』」
黒須は、ホログラムの地図に戻って、もう一度場所を確認した。
「その土地と言うのが、エジプトのナイル川からユーフラテス川までの間。これを『約束の地』という」
その声が、生徒たちの理解度を深めた。
まるで胸の奥に落ちる鐘の音のように響いた。
しかし、ルカの耳には入ってこなかった。
ただ、ルカの頬が熱くなっていた。
(黒須先生……こいつ、なにもの?)
ルシファーが小声で「ほらな」と呟き、ルカの頭上で指を鳴らした。
****
光が弾け、砂漠が揺らぎ始め現実の教室に戻った。
ウリエルの声が遠くから響いた。
「授業、終了。旧約聖書の時間はここまででーす!」
次の瞬間、教室の光が戻った。
生徒たちは興奮気味に拍手していた。
「やばい! 今の天使、超カッコよかった!」
「黒須先生の声、マジで鳥肌!」
黒須はチョークを持ち直し、平然と黒板に文字を書いた。
「……はい。これが“神と人間の契約”の始まり。
ここからが、ユダヤの物語の核心だが、それは、また次回だな。以上」
生徒たちは一礼するとバタバタと席を立って、教室を出て行った。
ただ、ルカはひとり机に肘をつき、ためいきをついた。
胸のドキドキは、まだ収まらなかくて苦しかった……




