第72話 ノアの箱舟と黒須の秘密
ポツポツっと雨粒が、渇いた大地に落ちてはシミをつくっていく。
見上げると、灰色の雲が空を覆い始めている。
足もとは、あっという間に泥だまりに。
遠くの地平には、巨大な木の船が見えていた。。
現代の少年天使ウリエルの通信が、どこか得意げに響いてきた。
―「ふふん。ここからの演出、気合入ってるっすよぉー。降水量リアルタイム再現、99%精度!」
ルカが濡れた髪をかき上げながら文句を言った。
「……リアルすぎる。髪が濡れるじゃない。生徒たちが風邪を引いたらどうすんのよ!」
「大丈夫っす、バーチャル水分です!」
ルカがため息をつく間にも、空から滝のような雨が降り始め、世界が水に沈んでいく。
ノアの方舟が、ゆっくりと陸から浮かび上がった。
VRの黒須は地上に降りて現場を見回した。
山の上に逃げ場を求めて泣き叫ぶ子供たち。
子を抱いて祈る母親。
濁流に飲まれる村。
VRの黒須は、高台に逃げながら腹を立てていた。
―「……こんなのおかしいだろ。子供まで殺す必要なんて、ねぇだろ……!」
堕天した後でも、黒須は“弱いものを助けたい”という、天使時代の癖が抜けていなかった。
―「ノアの家族しか救われないなんて、そんな契約あるかよ。よし、俺がこっそり別の子供たちも助けてやっからな」
それは、神に逆らう行為だ。
天界にも地獄にも属さない、危険な道だった。
―「どうせ、俺は許されない存在になっちまったんだから、もう何も怖い物なんかない」
黒須は考えた末、「日本」 という東の端の国に、子供たちを運ぶことを決めた。
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そこに決めた理由を、現在の黒須の音声のみで、告白した。
「日本に決めた理由は、いろいろある。一、神や天使よりも優れた人間が住んでいること。二、地獄からの影響も少ないこと。三、火山と森の多い島国で、動植物の種類が多く、生き延びやすい。三、“人類の未来”として残せる可能性が非常に高いこと」
黒須は最後に付け加えた。
「ここなら……誰にもバレずに生き残れるかもしれねぇ」
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だが、そこにVRの世界でルシファーが現れた
大洪水の真っ最中だ。
VRの黒須は子供たちを高台に避難させて、魔法陣に集めては何度も瞬間移動を繰り返している最中だった。
黒須が子供たちを抱えて、日本との往復を繰り返していると、後ろから冷たい声が聞こえた。
ルシファーだ。
―「黒須。お前……何をしている?」
―「見りゃわかるだろ。子供たちを助けんだよ」
―「どこへ運ぶつもりだ」
―「日本まで運ぶ」
―「あんな東の端っこまで?! おい、おい、神に逆らってどうする。お前はもう天使ではない。箱舟に乗れなかった者は、死ぬ運命だ。捨て置け」
―「……運命なんて、知るかよっ! 運命ってのはな、……自分たちで変えられるもんなんだよ! ぼけ!」
黒須は上司であるルシファーに楯突いた。
ルシファーは、思わぬ反撃に片方の眉をぴくっと上げた。
―「く、黒須、マジでやめろ。日本なんて片田舎に連れて行ったところで、この濁流を生き延びられる保障はない。
第一、神は“選んだ家族以外は救わない”と決めたんだ。神が無慈悲なのはわかってんだろ! これ以上逆らっても、なにもいいことはないぞ」
―「逆らうさ。もうとっくに許されない存在になっちまったんだ。ルシファー、お前のせいでな。どっちみち同じだよ。俺は子供を見捨てる仕事とは、……天顏であろうと地獄であろうと手を切る!」
ルシファーの目が細くなり、ギラリと光った。
―「そうか、……ならわたしは、お前を助けない」
黒須は肩をすくめた。
―「ああ、それがいい。俺は……、今日からフリーランスだ。もうお前の部下なんて、この瞬間にやーめた!」
その言葉に、ルシファーは初めて動揺した。
黒須は子供たちを抱え、濁流の中を飛び立つ。
自分の翼は黒く濡れ、雷が轟き、大地は沈んだ。
大勢の人間の悲鳴が聞こえたが、
……黒須は振り返らなかった。
―「生きろよ。俺が絶対に守るからな──」
そのまま黒須は、日本列島がまだ“縄文の森”だった時代に到達した。
そこで子供たちを育て、定住し、彼は“日本に住む謎の黒いの神”として地元の伝承に混ざっていった。
やがて子供たちは成長し、日本の各部族の先祖となった。
小高い山の上から、村を見下ろし、黒須は安心した。
―「……ここなら、いい。ここなら、誰もいじめねぇ。戦う必要もない」
VR黒須は神にも地獄にも戻らず、この島国に根を下ろすことを決めた。
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こうして……、
なぜ黒須が “ずっと日本にいる堕天使” なのか、その秘密が明かされた。
それは、ノアの洪水で救えなかった命の代わりに、救った子供たちを見守り続けたからだった。
ルカは、涙がこぼれないようにずっと空を見上げていた。
ウリエルは、打ち合わせで聞いていたとはいえ、実際にVRで再現すると、言葉が出なかった。
ルシファーは「お前また勝手なことを……!」と叫ぶ。
だが黒須は笑って答えた。
「俺はフリーランスだからよ。誰の命令も聞かねぇ。今まで、そうだったように、これからもそうだ。日本で勝手に生きてくから」
ルシファーは、ルカの耳元でそっと囁いた。
「黒須がわたしの配下から去って、フリーランスになった理由がこれさ。それ以来、あいつは日本で暮らしているんだけどさ。面白い奴だろう? ウケるだろ?」
「ウケない。全くウケない。笑えないわ!」
「そっか、ウケないか……だってよ、聞いたかぁ? 黒須」
黒須は、鼻の下を伸ばした。
「へへへ。聞いたー。ルカのツンが痛くて……いいかんじ―(おれの天使さまだからな)」
その時丁度、授業終了のチャイムが鳴った。
「おっと、きょうはここまでだ。教科書読まなくていいから、できれば聖書を買ってもらえ。旧約聖書がわかれば、世界の動きが理解できるからなー。以上だ」
生徒たちは、はじめてのVR授業体験に興奮しっぱなしだった。
その日は、一日中ずっと、学校でも家でも、旧約聖書の話ばかりしていた。
図書室に聖書を探しに行く子もいた。
そして、黒須先生の過去とドMぶりも、学校じゅうで話題になった。




