第70話 創世記 アダムとイブの楽園追放
一面に、柔らかな光が満ちていた。
空は金色、風は甘く、花の香りが漂っている。
まるで、絵画のように甘美な常夏の楽園だった。
そう、ここは、エデンの園だ。
花々の香り、透明な小川、風さえも優しく、柔らかく頬を撫でて行く。
ルカは深く息を吸い、思わずつぶやいた。
「うわぁ、……ここまでリアルに再現するなんて、ウリエル、どんな技術使ったの?」
―「“再現”っていうか、“記録再生”っすね」
ヘッドセット越しにウリエルの声が届く。
―「この時代、黒須さんも……実際に“いた”んすよ」
ルカは思わず顔を上げた。
「まさか……裸で歩いていないわよね」
「服を着ていないのは人間の方だ。希望に沿えず申し訳ない」
後ろから声がして、振り向くと黒須が聖書を開きながら咳払いしていた。
「希望はしていない! ちょっとしか」
「……?!」
VR画面の向こうの方……。
遠くに、木漏れ日の中を歩く女性の影が見える。
茶色い長い髪のイブだった。
そして、その傍らに……、赤毛の青年がゆったりと微笑んでいた。
光をまとうような姿だが、どこか妖しい微笑みだ。
ルカは、青年を見てつぶやいた。
「……あれは、ルシファー?」
青年は白いヘビ柄のスーツに身を包み、石像のように美しい顔立ちだった。
黒須が思わずつぶやいた。
「……おい、あれ」
ルカはため息をついた。
「知ってる。あれが原罪の不祥事”だわ。ルシファー、あなた昔から本当にしょうもないのね」
現在のルシファーが、ルカの方を振り向いた。
「ちょ、ちょっと待ってルカちゃん!? それは語弊がある! 当時のわたしは神の指示により、要所要所に現れただけで……!」
褐色の健康的な美女、イブは魅惑的なヘビ=ルシファーに魅了されていた。
VRのルシファーはイブに語りかけている。
―「イブ……その木の実を食べてごらん。“知恵の実”だよ。君は神と同じような知恵を得られる。世界を理解できる存在になれるんだよ」
イブは首を傾げた。
「で、でも……神様は食べちゃダメだって……」
―「イブちゃーん、神はね、時々君たちに“考えてほしい”だけなんだ。言われたことに従うだけの存在でいいのか? それとも……、自分で選び行動する人間になった方がいいのか? どっちが素晴らしいと思う?」
黒須はその言葉にピクリと反応した。
「……教育の本質を語っているつもりか?」
ルカの眉がぴくりと動いた。
「まるで、神さまの命令を破らせるような誘導方法」
現在のルシファーは言い訳をした。
「いやいやいや、仕事なんだよ! “自由意志のテストをしろ”って神に命令されたんだって!」
「仕事でも天界としては、完全アウトだから」
「ちょ、ルカちゃんが言うと刺さるっ……!」
その横で、イブは小さく頷き、木の実に手を伸ばした。
柔らかな赤い果実が、手の中で光った。
イブはひとくち、かじった。
瞳が揺れ、世界を見る目が変わった。
「……おいしい……。アダムにも食べさせてあげよう」
黒須はその様子を見ながら、ぼそっと言った。
「それにしてもさ、生徒たちから裸体が見えないように、うまく草木で覆っているんだな。ウリエル、ナイスだぜ。これが鮮明に映ってたら、俺、始末書もんになるところだった」
ウリエルは通信で返してきた。
―「そこは、ルカ先輩の監修が入りましたんで……、ちゃんと健全な資料になってまーす。ルシファーさんは、反対しましたが……」
知恵の実を食べたアダムとイブは、自分たちが裸であることに気が付き、急に恥ずかしくなり葉で体を隠した。
ルカは冷ややかに言った。
―「知恵を得るのは悪いことじゃないけどね」
現在のルシファーが肩をすくめた。
「だから言ったじゃないか、仕事だったって。あれ本心じゃないんだよ。本心はね……」
ふっと、ルシファーは視線を落とした。
「人間が知恵を持ったっていいとは思った。でも、そのせいで罪を犯したと思い込むようになるなんて、計算外だったんだよ」
ルカはその言葉に少し興味を持った。
だが、黒須は騙されない。
「じゃあ、なんであんなに甘く囁いた」
「……必要だったからだよ。“自分で選ぶ”ってことの意味を、最初の人間に教えるために」
その瞬間、VRの空で光が裂け、雷が走った。
イブもアダムも、震え上がった。
―「汝、我が言葉に背いた!」
神の言葉だった。
エデンの園が崩れ、風が吹き荒れた。
ルカは急いで生徒たちを集めると、翼を広げて守った。
それでもルシファーは、旧約聖書のエデンの園追放は自分のせいではないと言い張った。
「やばっ、ほぅら、来た来た。これで神に怒られるんだよ。わたしじゃなくて、人間による“自分の選択”のせいなのに」
ルカは、言い訳ばかりするルシファーを見て、少しでも同情したことを後悔した。
「あんたのせいでしょうが!」
黒須も責め立てた。
「素直に謝っとけよ!」
ルシファーは、情けないことに懇願するように手を合わせた。
「二人して刺さること言うの、やめてくれる!?」
やがて、嵐は静まり、上空に天使が現れると、アダムとイブを楽園から追い出した。
黒須は、ルカの肩をつついた。
「おい、あの天使、誰だ?」
「さぁ、わたしだって上級天使の名前を全部知っているわけじゃないからね。知らないわ。この時代のことは、ルシファーの方が詳しいんじゃない?」
そして、ルカがルシファーに聞こうと近づくと、ルシファーの方からふいに振り向いた。
そして、いたずらっぽく微笑む。
「あれは、ミカちゃんだよ、ルカちゃーん、さっき君も、生徒たちを守っていたね。相変わらず優しい天使だね。楽園の花より、君の方が罪深そうだ」
「……っ!? まだ授業中よ。職場で口説くな!」
ルカが頬を赤らめて睨むと、ルシファーは悪びれもせずウインクした。
「いやぁ、昔から天使には目がなくてね」
「……黙れ」
彼女の冷たい一言に、ルシファーは舌を出して笑った。
「ちぇっ、相変わらずツンが強いな」
黒須がじっとその様子を見ていた。
眉間の皺がじわりと深くなる。
「あのホスト野郎……授業中に何やってんだ」
だが、こんな不埒な展開に、生徒たちは大興奮した。
「え、先生!この人イケメンすぎる!」
「やば、神様よりカッコいい!」
「神様よりカッコイイなんて罰が当たるぞ」
黒須は咳払いをして、無理やり話を戻した。
「えー……はい、これが“創世記”。つまり、人類最初の反逆……つまり原罪の物語だ」
ルカは息を整えてから、黒須にそっと聞いた。
「ルシファーってさぁ、堕天使になる前は、どんな天使だったの?」
「興味あるのか、あいつに……」
「違う! 授業に必要な質問です」
「マジな話。かつては最高位の天使として、神の愛と信頼を得ていた」
「うわさでは聞いていたけど、マジだったの」
VRに映っているルシファーは、天使に楽園を追い出されたアダムとイブを目で追っていた。
―「あーあ、何も追放しなくてもいいのに、神もかわいそうなことをするもんだ。アダムとイブが生き延びられるように、ちょっと手を貸すか。おい、黒須。火を起こすぞ、手伝え」
VRには、現在の黒須とは違う、旧約聖書時代の黒須がいた。
彼は、ルシファーに協力して動く、ペーペーだった。
―「はい、ただいま」
素直にルシファーの命令に従って、火を起こす純真無垢な黒須天使がいた。
現在の黒須は昔の自分を見て、額に手を当てて叫んだ。
「あー! この頃の俺をぶん殴ってやりたい。ウリエル、この部分の俺はカットしろ」
―「はーい、じゃ、次行きまーす」
生徒たちの視界はぼやけてから白くなった。
VRは次の時代へと移っていく。




