第69話 VR授業「ユダヤの歴史」
翌週の世界史から、新しい授業は始まった。
黒板の前に立った黒須は、いつものように無造作に前髪をかき上げながら言った。
「学校の授業なんてつまんねーよな。特に世界史なんて、自分に関係ないと思っているだろう。なあ、佐々木」
「え……はい」
ざわついていた教室が一瞬で静まった。
その声には、どこか教科書を越えた“生きた時間”の響きがあった。
「だがな、今起きている戦争のせいで、物の値段が上がったりしてるよな。遠い国の話だと思っても、結局はおまえたちの生活に繋がってる。今日から、その“根っこ”の話をしよう」
黒須はそう言って、黒板にチョークを走らせた。
大きな円を描き、その半分を赤く塗りつぶした。
「この円は、世界の人口を百パーセントにしたものだ。この赤い部分……だいたい半分ちょっと超えるくらいが、同じ神を信じている人たちだ。」
「……同じ神? って何だ?」
「聖書を読んでいる人たちじゃないか? たとえば…キリスト教と、イスラム教とか」
と、生徒の一人がつぶやいた。
「そう。よくわかったなぁー! “ユダヤの神”だ」
黒須はチョークを置き、クラス全体を見渡した。
「今日のテーマは“学校では教えないユダヤの歴史”だ。はい、教科書は閉じて、地図帳だけ開くことー」
ルカは教室の後ろの席で、腕を組んで見守っていた。
(あいかわらず、挑発的な授業だこと……)
「ユダヤの歴史を知らなければ、世界で何が起きているのかさっぱりわからないぞ。逆にここを抑えれば、世界史も日本史も、めっちゃわかるようになるからな」
黒須はまたチョークを手に取り、今度は黒板に大きく三つの単語を書いた。
『ユダヤ教 キリスト教 イスラム教』
「この三つの宗教は、実は同じ神様を信じている。神の名前はヤハウェ、あるいはアッラー。呼び方が違うだけだ。神様は一人しかない宗教。これを一神教という」
黒須は笑って続けた。
「仏教も神道も、ヒンドゥー教も神様がいっぱいの世界だ。だから多神教。実は、多神教と言うのは世界の中では少数派だって、知ってた?」
生徒たちは、ポカンと口を開けている。
一部の生徒が、やっと「知らなーい」と反応しただけだった。
「つまり、世界の半分は“兄弟げんか”をしているってわけだな。要するにだな、世界の過半数を占めている一神教の人たちの、頭の中がどうなっているのかがわかれば、ケンカの理由のわかるってわけだ」
生徒たちがクスリと笑った。
教室の空気が少しだけ柔らかくなった。
黒須は再び円グラフを指さした。
「このグラフの赤い部分、この中で、実はユダヤ教は世界人口の1パーセントにも満たない。他の赤はキリスト教、イスラム教だ。
けれども、この少数派のユダヤ教が、世界史のほとんどを動かしてきた。なぜか?……それは、“神と人間の契約”という考えを発明したからだ。と、口で言ってもわからないだろうな」
「黒須先生、分かりませーん」
「ふん、だろな……。昔の話だが。ユダヤ教徒は嫌われていた。だから、ギルドにも入れてもらえなかった。ギルドに入らないと、仕事がもらえない。だから彼らは金貸しになったんだ。これを語ると長くなるから省略する。そにかく、この少数派民族が世界を動かしてきたんだよ」
真面目で成績優秀なマルが、クラス全体を代弁するかのように言った。
「さっぱりわかりません。金貸し業が世界を作ったなんて」
すると、黒須は聖書を高く持ち上げて、生徒たちが見えるようにした。
「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、三つの宗教の共通のテキストがある。これを聖書というんだ。ユダヤ人はただの聖書と言う。キリスト教徒は、あとでイエスのお話を集めたもう一個の聖書があって、そっちが新約聖書という。新しく訳したという意味じゃないぞー。新しい神との約束で新約って言うんだ。三つの宗教の共通のテキストとは、何か。それは、イエスが登場する前の話。つまりは、旧約聖書だ。これが世界の一神教テキストだな」
生徒たちは、黒須が持っている分厚い聖書に注目した。
「聖書を買うと、だいたい前半が旧約でユダヤ人の話な。で、後半が新約でイエスの話となってる。分厚いからさぁ、ちゃんと読んだやつは、ほとんどいないと思うよ」
生徒たちはどっと笑った。
ルカの心に、黒須の授業の進め方がぐっと刺さった。
(なるほど、日本人にはここから始めないとわかりにくいものね)
黒須は続けた。
「ユダヤ教の“神との契約”をもとに生まれたのが、キリスト教、そしてイスラム教だ。
だからユダヤを知ることは、世界の根をたどることになる」
彼は教壇の端に立ち、生徒たちの顏を見回した。
「日本の神道や仏教は、たくさんの神を認める“多神教”だろ? 一方、ユダヤやキリスト、イスラムは“神は一人だけ”と信じる“一神教”だってところがポイントだ。この思想の違いが、今も世界を動かしているってことを、じっくり学んでいこう」
ウリエルは教室の隅で、ノートPCを操作していた。
生徒たちはそんなウリエルに気づいていない。
(よし……VR共鳴システム、起動準備OKっす。あとは黒須さんの合図で)
黒須は生徒に向かって言った。
「じゃあ……、百聞は一見に如かずだ。みんな、今から3500年前の世界を“体験”してもらう」
ざわつく教室。
ルカは、身を乗り出して、生徒たちに異常がないか確認する。
黒須がウリエルに小さくうなずいた。
次の瞬間、教室の照明がふっと落ちた。
机の上に光が走り、生徒たちのタブレットが一斉に輝いた。
ウリエルの声がスピーカーから流れた。
「それでは……1年G組の皆さん、旧約聖書の世界へ、いってらっしゃいませぇ〜!」
教室が眩しい光に包まれた。
生徒たちは驚きの悲鳴を上げた。
「「「うわぁーーー!」」」
「「「きゃーーーー!」」」
ルカの視界が、黄金色の砂漠へと変わった。
乾いた風が頬を撫で、どこかで雷鳴が響いている。
黒須の声が、空から降ってくる。
「ここが……創世記の世界だ。」




