第67話 新任教師の紹介、神話か地獄か
目覚まし時計の電子音が鳴っていた。
正確には、“鳴っていたような気がする”という方が正しい。
ここは、第4地獄東京分室……使われていない青葉学院の合宿所の地下だ。
時計は歪み、カレンダーは逆回転し、Wi-Fiだけはなぜか強いのが特徴だ。
ベッド代わりの赤いソファで、ルシファーは大きく伸びをした。
「……おはよう、地獄。今日も世界は愚かで、美しい」
壁際では、サタン直通の火炎ポストが青白く燃えている。
(……朝からうるさい)
開封すると、中には“炎の勤怠票”と“文部科学省・教育特別顧問出向命令書”と書かれた紙が入っていた。
サタンの声が、煙の中から響いた。
『お前、今日から“教育顧問”な。人間どもを“考えない”方向に導け。……あと、経費は自腹だ』
「うっそー、もう自腹って、マジか! とっつぁん」
ルシファーは小さくため息をつき、鏡の前でネクタイを締めた。
黒
白のスーツ。
地獄製のシルクだ。
鏡の向こうでは、もう一人の自分――堕天使としての自分が笑っていた。
「愛でも教育でも、結局は支配の形を変えただけだ。ならば、わたしが少し、上品に支配してやろうじゃないか」
誰も使っていないロッカールームの奥に、一枚の姿見が立てかけられている。
ただの鏡に見えるが、ルシファーにとっては“出勤ゲート”だ。
スーツの襟を整え、鏡に顔を近づける。
鏡が低い電子音を立てて光った。
> 『顔認証システム、起動──おはようございます、ルシファー様』
> 『本日の出勤目的を選択してください:①教育改革 ②支配 ③その他』
「③その他、にしておけ」
……ピッ。
> 『エラー:感情の揺らぎを検出。再認証します』
「はぁ? 感情の揺らぎ? 朝から鏡にまで説教されるとはな」
鏡の光が一瞬止まった。
> 『本人確認失敗。PINコードを入力してください』
ルシファーはため息をつき、黒い手帳を取り出した。
「……んだよ。最初からコード入力にしとけよ……」
指で宙に数字を描くと、鏡面に地獄文字が走った。
> 『ようこそ、地上出勤システムへ。今日も教育を支配してください』
「支配はほどほどにしておくさ」
軽口を叩いた瞬間、鏡面がゆらりと波打ち、地獄の赤い光から朝の青葉学院の正門が映し出された。
目の前には、朝の青葉学院高等部の正門。
制服姿の生徒たちがわいわい通り過ぎていく。
その中を、地獄に似つかわしくないの白いスーツのイケメンが一人、颯爽と歩き出した。
「おはようございます、新任の先生ですか?」
警備員が声をかけてきた。
ルシファーはウィンクして、さらりと名刺を渡した。
文部科学省 教育特別顧問 ルシファー・ヴィーナス
「教育の、夜明けを見に来ました」
生徒たちがざわついていた。
「誰、あの人……」
「芸能人?」
「モデルじゃない?」
構わずルシファーは校内に入って行った。
職員室のドアを開けると、コーヒーの香りがした。
その奥に、見慣れた男の姿が……。
黒須サトルだ。
カップを片手に、まだ寝ぼけた顔で出勤したばかりだった。
「ふぁあー……ねみぃ……」
堕天使黒須のかつての上司ルシファーは、黒須を見つけると微笑んだ。
「やぁ、堕天使くんおはよう。わたしも教育に携わることになったよ。よ・ろ・し・く」
黒須は、思わずコーヒーを噴き出した。
「……ぶっ! なんでお前……。ああ、今日から来る、文部科学省からのお偉いさんって……、まさかまさかの、お前かよ!」
「お前と呼ぶな。昔は上司だったし、今回も身分が各上だ。そう、教育改革ってやつは、まず地獄から始めるって知ってたか?」
窓際では、ルカが驚いたように立ち上がった。
「え……! なんで、あなたがここに……!」
ルカは今日から、青葉学院高等部に本採用で働くことになっていた。
ルカと黒須が、早くも新任のルシファーと会話しているのを見ていた先生たちは、呆気にとられた。
「ルカ先生、黒須先生も、この方をご存じなんですか?」
「ご存じも何も……」
慌ててルカが黒須の脇腹をつついた。
「うっ!」
ルカは優しい笑顔で答えた。
「いえ、何でもありませーん。ちょっと知り合いに似てたものですから、つい…もう、黒須先生ったら新橋の飲み屋街に知り合い多いから……」
ルシファーは、ルカを見つけると喜んで甘えに来た。
「ルカちゃーん、やっと君と一緒に働けるね。地獄も、いまは教育事業に夢中でね。困ったことがあったら、わたしに相談していいんだよー」
「要らない。前職で解雇されたの忘れたの? 職場ではプライベートエリア遵守すること!」
「怖―い、ルカちゃん。もっと叱ってー」
ルシファーは微笑むと、ホワイトボードにマーカーを走らせた。
――【今後の教育目標:考えるな、感じろ】
黒須は何処かで聞いたセリフだと思った。
「……ブルース・リーかよ」
「黒須先生、古いですね。何歳ですか?」
「ああ、9000行ったか行かないかくらいかな」
次に、ウリエルが職員室のドアを開けて入って来た。
「おはようございまーす。今日から派遣されたウリエルと言いまーす」
「お前まで……、なんなんだ今日は……」
新任教師として来たウリエルは胸を張り、職員の前に貼る名札を書いていた。
「えーっと……これでいいかな」
黒須が近寄って首をかしげた。
「お前の苗字……ポップコーンだったのか?」
「いやぁ、天使に苗字ってないじゃないですか? だから、勝手に考えました!」
「勝手に考えるなよ!」
「本当はチョコバナナにしたかったんですけど、ルカ先輩に“ふざけるな”って却下されちゃって」
「……俺も却下する」
黒須は深いため息をついた。
「ポップコーンで……ギリギリ、オッケーだ」
「やったぁ! じゃあ今日からウリエル・ポップコーンです! 生徒たちに覚えてもらえそうっすね!」
「忘れられねぇよ……悪い意味でな」
ルカは遠くから呆れ顔で手を振っていた。
少年天使の新たな“人間界プロフィール”は、こうして決まったのだった。
職員室がざわめく中、ルシファーは黒須のコーヒーカップを指で持ち上げた。
「冷めてるじゃないか。……教育も、愛も、熱いうちに飲むものだよ。黒須先生」
「お前も苗字を考えたんじゃないだろな」
「もちろん、考えたよ。明けの明星ヴィーナスだが、何か?」
「ふざけてんのか? お前はりんご飴だろ」
「ルシファー・りんご飴!だと? なんかピッタリしすぎてて気にいらない」
今度は、黒須とルシファーの視線がぶつかった。
静かな火花が散った。
そして、朝礼のチャイムが鳴った。
チャイムが鳴ると同時に、職員室が静まり返った。
校長が手を叩いた。
「みなさん、おはようございます」
「おはようございまーす」
「えー、それでは、新学期の新任教員および派遣顧問を紹介します」
前方の黒板の前に、三人の姿が並んだ。
一番左は、黒いスーツを完璧に着こなした長身の男。
その名を呼ぶ校長の声は、どこか緊張していた。
「文部科学省 教育特別顧問、ルシファー・ヴィーナス先生です」
「いいえ、ルシファー・りんご飴に、今日か改名しました!!」
「いいんですか? ルシファー先生」
職員室の空気が一瞬止まった。
あまりの存在感に、誰も息をしていない。
光沢のある赤い髪、まるでオペラ座から抜け出したような微笑。
声は低く澄んでいて、聞いている者を妖しく引き込んだ。
「皆さんの教育という名の“愛の現場”に、少しだけお邪魔します。原罪の蜜の味を味わってみませんか?」
……どよめきがおこった。
保健の先生が赤面し、理科の女先生がペンを落とした。
黒須は、朝からコーヒーをこぼした。(それはいつもの不注意だ)
続いて、校長の声が響いた。
「続いて、教育実習生として勤めていたルカ・セラフィム先生が、本採用となりました」
ルカは、緊張した面持ちで一歩前に出た。
白いブラウスに、落ち着いたグレーのスーツ。
真面目そのものの姿に、妙に周囲がざわめいた。
「ルカ先生。おかえりなさい」
「よかったですね。本採用になって……」
「わたしも嬉しいよ……ルカちゃん」
隣のルシファーが微笑むたびに、彼女の肩が少しこわばった。
「……よろしくお願いします。生徒たちと、真摯に向き合いたいと思います」
完璧な挨拶。
だが黒須の目には、“地獄のエースと天界のエージェントが同じフレームにいる”というあり得ない光景として映っていた。
校長が満足げにうなずき、最後の一人に目を向けた。
「そして、情報教育推進のために派遣された、ウリエル・ポップコーン先生です」
ウリエルは軽やかに前へ出て、元気よく頭を下げた。
「プログラミング部の顧問としてお世話になりますっ! ホワイトハッカー養成所も準備中ですっ! パソコンでお困りのことがあったら、僕が解決します。よろしくお願いします!」
職員室の女性陣がざわついた。
「ポ、ポップコーン? ピッタリね」
「か、可愛い……」
「中学生?ってか、うちの教え子たちと変わらない」
「え、先生なの?」
「やだ、わたしパソコン苦手だから教えてもらおうかしら」
ウリエルはにっこり笑い、スマートウォッチを掲げた。
「この学校のネット環境、もう少し防御力上げた方がいいっすね!」
どっと笑いが起きた。
これで、ウリエル・ポップコーン先生は職員室のアイドルに確定した。
黒須はコーヒーを飲みながら三人を眺めた。
(……地獄絵図か、神話か。)
ルシファーの漆黒。
ルカの純白。
ウリエルの蒼光。
まるで“教育の三原罪”が並んで立っているように見えた。
校長が言った。
「では、これで朝礼を終わります。今日から新しい風が吹きますね!」
黒須は心の中でつぶやいた。
(……いや、嵐だろ。嵐が吹くに1万ポイント!)




