第59話 ルシファーの誘惑
白い光が去ったあと。
ルカと黒須は、静まり返った永炎ホールの中央に立っていた。
天井の炎は消え、空間にはかすかな灰の光だけが漂っている。
観客も、サタンの影も消えていた。
まるで時間が、二人を置き去りにしたかのようだった。
「……ウリエル、応答して」
ルカは通信を試みた。
しかし、ノイズしか返ってこなかった。
「通信が……途絶えている」
黒須はため息をついた。
「まあ、アイツも巻き込まれたんだろ。きっと生きているさ」
黒須は、もう一度ルカの方を向いた時、彼女の顔に無残な傷があるのに気づいた。
ルカの白い頬には、薄く光の痕が残っている。
鎖が消えるときに、彼女の翼を焼いた跡だった。
「痛くねぇのか?」
「平気。光がかすっただけ。すぐ直るわ。天使の治癒力舐めないで」
「いや、俺は傷は舐めない。舐めたいけどそんなことしたら、君に嫌われるから舐めない。やめろよ、そんないやらしい発想は」
「は? 既にあんたの勘違いがめちゃくちゃいやらしいんだけど……」
ルカは恥ずかしさに耐え切れず立ち上がった。
そして、周囲を見渡した。
「サタンもルシファーも、どこかに転移したみたいね」
「……どうする? 一旦戻るか?」
ルカが首を振った。
「それはない。まだフェスの“中枢”が動いてる。サタンの装置を止めないと……」
「無理すんな。 地獄のことなら俺のほうが詳しい。少しは頼れよ」
「黒須先生……」
そのときだった。
背後から、低く柔らかな声が響いた。
「……装置を止める必要なんて、ないさ」
その声に、黒須とルカは振り返った。
そこには、炎の残光の中、ルシファーが傷一つなく美しいまま立っていた。
黒いジャケットを纏い、微笑んでいる。
だが、今の彼はさっきまでと少し違った。
ルカには、ルシファーの瞳に宿る光が、どこか悲しげに映った。
「ルカ。君の光はまだ消えていないかい? それなら……もう抗わなくていい。無駄な争いはよそう」
堕天使ルシファーの優しい言葉に、ルカは一歩、後ずさった。
「ルシファー……あなた、何を企んでる?」
「企みじゃない。ただ、君を救いたいんだけだよ」
彼は静かに近づき、指先でルカの頬の痕をなぞった。
「痛いだろう?」
ルカは小さく息を呑んだ。
ほんのわずか、その手の温かさに、心が揺れてしまいそうだった。
黒須が立ち上がった。
「離れろ!」
ルシファーは視線を黒須へ向けた。
「……君はいつも、彼女を守ろうとするね。でもそれは、君自身のためだ」
「どういう意味だ」
「君が守っているのは、ルカじゃないよ。彼女が君を必要としてくれる、その瞬間が欲しいのだろう。自分にご褒美を与えたいんだ……それを“愛”と呼ぶには、あまりに人間的だな」
黒須は拳を握った。
「人間的で、悪いか」
ルシファーは微笑んだ。
「フフフ……いや、むしろ羨ましいよ。私には、もう“誰かを必要とする”感情がないからな」
ルカはその言葉に、目を伏せた。
「……ルシファー、あなたはずっと一人だったの?」
「そうさ。だからこそ、君のような存在が眩しいんだ。理性と感情の狭間で揺れながらも、誰かを想う君は、心の底から美しいと思う」
彼の声は、まるで夜風のようだった。
穏やかで、危険なほど心地よい。
黒須は、間に割り込もうとした。
だが、そう思ったより先に、ルシファーがルカの手を取った。
「もし君が、この世界に居場所をなくしたら、わたしのもとへおいで。天界でも地獄でもない場所を、わたしなら君のために創ってあげられる……」
ルカの心が揺れた。
それは恐れでも迷いでもなかった。
あえて言うなら、ルカはほんの一瞬……惹かれていた。
(やばいっ! めっちゃ優しくていい男。誘惑してくるよーーー! こういうの、こういう優しさに女心は弱いのよー)
黒須の胸に、熱が走った。
「やめろ……」
ルシファーの声は穏やかだった。
「なぜ?……黒須だって彼女を好きなんだろう? だったら、止める理由はないだろ。彼女にとって最もふさわしい世界をわたしは用意する。君は好きな人の幸せを願わないのかい?」
「違う。……お前は“奪う”気だ」
「おや……。“守る”ことと、何が違うのかな?」
黒須は息を呑んだ。
確かに、ルシファーの理屈は人を惑わし、当たっているように聞こえる。
しかし、その計算尽くされた正しさが、どうしようもなく悔しかった。
だが、ルカはルシファーの手を振りほどいた。
「……お生憎さま。わたしは、誰のものにもならないわ。わたしの居場所は私が決める。でも、勉強になった。こうやって、ホストに堕ちて行く女心がよくわかったわ」
その答えに、ルシファーは微笑んだ。
「ルカ……。今まで出会ったどんな女よりも、君が一番強くて美しい!! そうやって完全否定する君って……さすが天使エージェント。ね、ね、黒須? そう思わないか? わかるだろ? 黒須も彼女のこの強気なところが、たまらなくいいんだよね?」
黒須は拳を握りしめた。
当たっているだけに、言い返せない。
だが……
次の瞬間、彼の拳はルシファーの頬を、思いっきり打ち抜いていた。
ルシファーは衝撃で飛ばされ、永炎ホールのど真ん中に転がった。
それでも、彼は口元を拭うと、かすかに笑ってみせた。
「フッ……そうか、そういうことか。お前は、この天使にもう“堕ちている”んだな」
「何だと? ルカの魅力は俺だけがわかればいいんだ。お前なんかにわかってたまるものか!」
「いいなぁ、黒須。羨ましいよ。フフッ……。怒りも嫉妬も、立派な愛の形だ。これだから誘惑はやめられない。……ようこそ、地獄の恋愛哲学へ。そうだ、次に会う時は、お前と同じ舞台で勝負しよう。そうしよう」
「まさか、教育現場に来るとか? ……やめとけ、お前は教員に向いていない」
「ん? そうかな。 だが、教育ってのも面白いじゃないか? 優秀な奴隷を産み育てる現場なんだろ? そして、わたしはお前を再び管理するんだ。このわたしが、ただの平教員で行くと思うのか?」
「えー! 管理職に入るつもりかよ! もしも、俺の生徒に手を出したらタダじゃ置かないからな」
「手は出さない。約束する。口は出すけどね……」
言い終えると、ルシファーの姿は青白い炎の中に溶けて消えた。
その後には静寂だけが残された。
ルカは黙ったまま立ち尽くしている。
黒須は拳を見つめ、息を整えながらルカに謝った。
「悪い、殴っちまった。暴力きらいだよな」
「え? ああいうのは殴っていいんじゃない? 一発じゃ足りないくらいよ」
ルカはゆっくりと微笑んだ。
それを聞いて安心した黒須に、ルカはちょっと聞いてみたくなった。
「ねえ、黒須先生……もし、わたしがルシファーの誘惑に“堕ちた”ら、どうするつもりだった?」
「……そりゃ、そのときは、俺も堕ちるさ」
「え、もう堕ちてるんじゃ……。あんた、堕天使だよね?」
「あ、そうか。じゃあ、……喜んで引き受ける」
その言葉に、ルカはこらえきれずに吹き出した。
「えー? 引き受けるって何? 身元引受人みたいに聞こえるけど?」
「そうさ、君の地獄での身元引受人になるんだが……何か?」
ルカは笑いをこらえるあまり、肩が震えてしまった。
「寒いのか? ほらよ」
黒須は、自分のジャケットを脱いで、ルカに被せてやった。
せっかくジャケットを脱いで気取っている黒須だ。
本当は寒くないと知ったら可哀そうだなと思って、ルカは寒いことにしておいた。
「う、うん、……今夜は冷えるわね」
(ってか、天然バカかこいつ。はぁーー、堕天使が天使の身元引受人になるって、どういう発想? どっちかというと面倒見てるのはわたし……だと思うけど。でも、温かいわ、この堕天使)




