第32話 堕天使黒須の逃亡劇
―バーン!!
―ピンポーン
サッカーボールの破裂音と、青葉学院高等部の事務所のインターホンが同時に鳴った。
誰もいない事務室に、地獄の東京第4室長、ハエの紳士の声が響いた。
「黒須! 黒須!」
ハエの紳士の声に、黒須は我に返った。
さっきまで、神に対して愚痴ばかりならべていたが、学校で争いごとになれば一番被害を被るのは、図書室にいる生徒たちだということに気づいた。
黒須は、一瞬のうちに勝負の十手先までを高速フル回転で考えた。
次の瞬間には、黒須の体は夜空に瞬間移動し、ふわりと浮かんでいた。
そして、ビルの屋上を次々に飛ぶように走りながら、東京の街を移動した。
「黒須! 軽く話をしに来ただけなんだ。」
学校から夜空を走り、自宅まで逃げて来た黒須。
すでに、彼のマンションの近くまで、ハエの紳士とその部下が追って来ていた。
二人の悪魔は、黒須のマンションまで追いかけて、エレベーターの12階のボタンを押した。
常識とは無縁の彼らは、ドアに鍵がかかっていようといまいとお構いなしに、部屋の中にずんずんと入って来た。
「いるのはわかっているぞ。地獄の東京分室よりも、りっぱなマンションだなぁ。こんないい所に住むなんて、お前もいいご身分だな」
黒須は、こっそりと額縁の裏にある金庫を開けた。
金庫の中には、ルカからもらった水筒が入っていた。
それを落さないように丁寧に取り出し、ジェット型水鉄砲に装着した。
そして、ソファーに座り込むと、大きく深呼吸した。
地獄のハエの紳士はリビングに近づいて来た。
「ルシファーさまからご命令があった。お前が天使とハルマゲドンの邪魔をしているらしいってな。だから抹殺して来いと言われてやってきたのだが……、身に覚えがなければそれでいい」
黒須は、リビングから顔だけ出した。
「ここだ。二人とも」
そのとき、黒須の水鉄砲が、下っ端の悪魔めがけて聖水を噴射した。
「うぎゃーーー!!!!!」
下っ端の悪魔は聖水を浴びてもがき苦しみ、泡となって消えた。
その様子を目の当たりにしたハエの紳士。
彼は、あまりの恐ろしさに悲鳴が止まらない。
「ひぇー、ひぇー、ひぇー!!!! こ、これ、聖水だな。なんてことをしやがるんだ。たとえ悪魔でも、聖水だなんて。こ、こんなおそろしいものを、どうやってお前は手に入れたんだ。あの天使からもらったのか? あぁ……ひどいじゃないか。やつは何もしていないのに……」
「まだな」
黒須はジェット型水鉄砲をハエの紳士に向けた。
「黒須……、おどしても無駄だぞ」
「これ、遊園地で買ってきたんだが、なかなかコスパがいいな。中の水? もちろん聖水だ。おまえもすぐに部下と同じところへ行ける」
「……どうせ、ハッタリだろ。ここで俺が消えても、ルシファーさまの怒りは消えないからな」
「かもしれないな」
黒須は立ち上がると、窓を開け、バルコニーに足をかけて隣のビルにジャンプした。
次から次へと建物を移動したが、ハエの紳士にも黒い翼がある。
逃げながら聖水ジェット型水鉄砲を使えば、風に飛んで黒須自身にも、聖水が振りかかる危険がある。
黒須は作戦を変えた。
ビルの屋上戦はやめて、地下鉄へと移動。
地下鉄の階段の手すりを滑って降りると、改札口を華麗にジャンプ。
タイミングよくホームにやって来た電車の上に飛び乗った。
電車の上をミニサイズになった黒須が走った。
パンタグラフに近づくと、さらに小さくかがんで、新宿駅のホームに降りると、元の大きさに戻った。
ハエの紳士も、これくらいのことは出来る。
同じ行動をとって黒須を追ってきた。
新宿駅では、人ごみの中を走った。
それでも、ハエの紳士は、執拗に黒須を追ってくる。
ならばと、黒須は胸ポケットからスマホを出し、スマホタッチで改札口を通過した。
人ごみの中のハエの紳士は、ジャンプすることも出来ず、改札口で人にもまれながらも無理に通過しようとした。
パッターン!
室長は自動改札機に捕まった。
周りの人間が迷惑そうに避けていく。
「ちっくしょう!」
改札ドアの衝撃を受けて、
ポケットから一枚の紙切れがひらりと落ちた。
その紙きれを素早く拾ったのは、駅員だった。
それは、抜群のタイミングで現れた、駅員の制服を着たウリエルだ。
「お客さまー、すみませーん、不足料金をお支払いくださーい」
「そんなものはねえ! 俺は地獄の東京第4室長、ハエの紳士だぞ!」
「どなたさまであっても、不正乗車はいけません。こちらの精算機でお支払いください。ちょっと確認しますね。ええっと、地獄の東京第4室長とおっしゃいましたか。あ、臨時列車が出るようです。0番線ホームに電車が参ります。料金は結構です。黄色い線までお下がりください」
「なんだって?」
「0番線に入りました電車は、快速地獄行き臨時列車です。全席指定。自由席はございません。車内販売もございません」
「特別なのか? プレミアム車両か?」
「ブラック車両ですね。あなた専用の臨時列車です。……ドアが開きまーす。前方よし、後方よし……ドアが閉まりまーす。危険ですので、駆け込み乗車はおやめください」
「おい、もう一回言ってくれ。どこ行きだって?」
ウリエル駅員は、ハエの紳士の体を押しながら電車に乗せた。
「最も深い地下鉄、地獄行きでございます。発車オーライ。出発進行!」
電車の発車メロディは、バッハのトッカータとフーガ ニ短調だった。
バタン、と音を立ててハエの紳士は車両に閉じ込められ、列車は深い深い地下へと消えていった。
「はぁ、はぁ、……助かった。ウリエル、ありがとう……って言うのかな」
黒須は額の汗をぬぐい、ウリエルに感謝の言葉を伝えた。
すると、ウリエルは何も言わずに、さっき改札口で拾った紙切れを見せた。
そこには、〈四騎士東京集結計画〉と赤いペンで書かれていた。
「これは……!」
黒須が息を呑むと、ウリエルは手を振った。
「感謝の言葉はまだ早いっすよ。いよいよ、ハルマゲドンが始まります。この〈四騎士東京集結計画〉は、僕にとって、RPGみたいなもんですね。プログラムなら、なんとでも書き換えることが可能ですから。そんなことより、ルカ先輩っすよ!!」
「ルカがどうした?!」
「黒須さんが悪魔から狙われているように、先輩も大天使から狙われているんです!」
「そんな、ばかな! お前ら、天使同士だろう? 仲良くないのか?」
「時と場合に寄ります。……とにかく、早くルカ先輩を守らなきゃ。ルカ先輩を守れるのは、黒須さん、あなたしかいません!」
「おい、おい、待てよ。俺はな、昨夜ルカにフラれたんだぞ」
「知ってます」
「知ってるー? 知っていて俺を笑いものにしたいのか?」
「すみません。時間がないので、いいですか? 一回しか言いませんからね。
そろそろ赤坂の恋愛CIAオフィスに、天界の大天使が集まる時間です。
おそらく、ルカ先輩の身体に損傷または苦痛を与える刑罰が目的です。
僕はこれから赤坂に向かいます。黒須さん、僕の車で一緒に行きましょう」
ウリエルは黒須と一緒に、新宿の地上に出た。
すると、どこからともなく白いバンが走って来て、道路わきに停車した。
ウリエルは運転席に飛び乗り、黒須は助手席に乗り込んだ。
「やるじゃねえーか小僧。助かった。この聖水の水鉄砲は、ここに預かっていてくれ。俺はもう触りたくない」
「了解!」
「生徒たちは無事か?」
「生徒たちは、学校の図書室に集まって自習しています。もちろん、安全確保してるっす。じゃ、赤坂へ行きますよー。」
白いバンは、急発進すると猛スピードで走り出した。
「お、おい、前見ろ!前! 法定速度守れよ。おい、そこは横断歩道だぞ! 歩行者がいる!」
「こんな時に、歩いている奴が悪いんっすよ!」
「そんな、無茶苦茶な……。ウリエル、君、天使だよな?」
「ああ、下級のね」
「下級でもなんでも天使だろう……俺よりひどいな。……それで、ダニエルたちは無事なんだろな、ほんとに」
「安心してください。友だちと学校の図書館で勉強してますって、ほんとに! ロクさんのおかげでダニエルは狂暴化することもなく、穏やかに学校で過ごしていますよ」
「と、いうことは、ダニエルたちの保護者に連絡とった方がいいな」
黒須はウリエルの車の中から、スマホで保護者に連絡をした。
「黒須です。いやー、連絡が遅くなって申し訳ございません。突然ですが、歴史の補習合宿をすることになりまして、お子さんは、学校の図書館にいます。いや、成績が悪くて補習合宿じゃありません。むしろ、成績優秀で、国際会議学生招待プログラムに参加するための合宿です。後ほど書面をメールします。ちゃんと安全に送り届けますのでご安心ください……」
ウリエルは運転しながらつぶやいた。
「嘘つき」
「嘘は本職。俺は堕天使だからよ」
次に黒須はルカに電話した。
マッチングサイト以外の連絡先を、やっと聞き出したばかりだった。
きのう、別れてしまったが……。
(もしかして、出るかもしれない)
だが、彼女は電話に出なかった。




