第17話 邪悪ってほど邪悪じゃない
教室の後ろのドア近くで授業を見ていたルカは、腕を組んで小さく息を吐いた。
(なるほど……黒須先生の授業は教科書通りじゃないけど、生徒には評判がいいって……。これが評判の授業か。確かに教科書通りじゃない。
歴史をただの暗記ものじゃなく、“生きた物語”として語るってことか。……恋愛偏差値はゼロだけど、おもしろい男じゃない?)
前の席では、ダニエルが目を輝かせてノートに書き留めながら、つぶやいた。
「そうなんだー……聖戦って、ほんとは聖なるものじゃなかったんだ」
そして、黒須の方を見て、どこか尊敬の色すら浮かべていた。
黒須はそんな視線に気づかぬふりをして、チョークを回して次の板書に取りかかった。
「さてと……神聖ローマ帝国の話に戻るか……おっと、もう時間か。続きは次回にしよう。」
チャイムが鳴り、教室のざわめきが廊下へと流れ出した。
ルカは黒須の出したプリントを手に、後ろからダニエルに声をかけた。
「……どうだった? 今日の授業」
「すごく面白かったです! リアリティありました」
ルカは横目でダニエルを見て、小さく笑った。
「まあ、あの先生は、実際に見て来たんでしょうね。喋っているセリフも当時のままだし……」
「え?」
「いや、こっちの話」
ルカは手をひらひらと振ってごまかした。
ダニエルは迷いなく答えた。
「戦争って聖なるものじゃないなんて……考えたことなかったです。教科書には“宗教的意義”とか書いてあるのに」
ダニエルは首をかしげたままだ。
だが、その表情にはどこか尊敬の色が残っていた。
「黒須先生って、悪魔なのに……人間を騙そうとしないんだ。嘘の歴史は教えないんですね。イェルサレム奪還のためなら、どんな罪でも許されるって、……悪魔の取引みたいです」
「ダニエル君、その言葉、他で言ったらダメよ」
ルカは軽く釘を刺すように言った。
「僕が神か悪魔だったら、そんな十字軍を出したローマ教皇なんか、滅ぼしてしまうだろう」
「え?」
「最初から作り直したほうがいい……」
ダニエルの発言に、ルカは不安を覚えた。
「作り直すって、何を?」
「世界ですよ。この世界は作り直すべきです」
「ダニエル君、その話の続きをしたかったら、わたしが聞くね。教室では控えようか」
しかし、ダニエルはルカと視線は合わせず、黙ってテキストを片付けていた。
ルカの事は信用していないと言わんばかりだ。
つい、ルカは心の中で本音をつぶやいた。
(くそ、天使より堕天使の方が刺さるのかよ、このガキは)
すると、ダニエルはふと顔を上げた。
「だって……ルカ先生って、何者かわからないんだもの。当然です」
「え、心を読んだ?」
ルカは、ダニエルから静かに離れると、早足で職員室に向かった。
(やっぱ、あの子普通じゃない)
純粋そうでどこか儚い表情とは裏腹に、破滅的な言葉を平気に口にするダニエル。
簡単に大人の言葉を信じる子供ではないと、ルカは判断した。
一方で、授業中あの真っ直ぐな声で「戦争に聖なるものなどない」と言い切った黒須。
ダニエルと黒須……。
ルカは廊下を急ぎながら、どっちが邪悪な存在かわからなくなってきた。
(黒須は堕天使のくせに、邪悪ってほど邪悪ではない。もしかしたら、黒須ならダニエルを正しく導くのでは……)
ルカの思考は、バグを起こしていた。
そして、黒須の邪魔をする計画が、少しずつズレ始めた。
職員室のお昼休み時間。
ルカは、黒須に授業の感想を、めずらしく素直に伝えた。
「なんだかわかる気がしました。黒須先生の授業が、生徒に評判がいいって理由」
黒須は、照れながらカレーパンをかじった。
「ルカ……ちゃん。それほどでも……」
(はぁ? ルカちゃんって何、ちゃんって。さっきまでの誉め言葉を全力で撤回!)
素直なルカは5秒で消えた。
いつものように、黒須の欠点を厳しく非難し始めた。
「でも……、少年十字軍なんですけど……、あれ、教会は公式に認めていませんから。認められていないことを教えるのは、教育者としてどうでしょうか」
「……そうきたかぁ。認めるわけないだろう。認めたら、十字軍を主導したローマ教皇の権威を大きく失墜させることになるからな。
『わたし知りませーん。聞いてませーん。行けって言ってないもーん。行けって言ったのは、修道院とか町の司祭たちだもーん』
ってな、まあ、そんなかんじだな」
「う……」
(こいつ、なんてことを言うんだ。教皇を冒涜するなんて許されない。ってか、もともと許されない存在か。そうか……善悪の基準から離れた奴って、最強だな)
ルカは、黒須の言葉に感心してしまった。
(はっ!……馬鹿な。何を感心しているのだ、わたしは。これは任務だ。感情を持ち込むな、ルカ)
ルカはそう心の中で自分を叱りつけながら、書類をファイルに挟み込んだ。
その後も、黒須の授業中の堂々とした横顔が、頭から離れなかった。




