第120話 「世界を救うより、覚悟がいる」
七日後の週末。
黒須サトルは、部屋のバルコニーから身を乗り出して、ゆったりと流れる雲を眺めていた。
(流れる雲を見上げるなんて何か月ぶりだろう。ここんところ、ずっと忙しかったからな。昔の天界もこんな風だった。人間界もなかなかいい。平和だ。こんなにゆったりとした時間は久しぶりだなぁ)
ふと視線を下げると、マンションのエントランスに引っ越し用トラックが止まっていた。
都内のマンションではよく見る風景だ。
だが、黒須はそれを見て、思わずスマホを持つ手が震えた。
衝撃だったのは、引っ越し用トラックではない。
トラックの横で、黒須に向かって爽やかに手を振ってる少年。
その彼と、目が合った。
「黒須さーーん! おはようございまーす! 今日からお隣、引っ越してきましたー!」
「……は?」
ウリエルがいるということは……、
当然、その隣では、ルカが長いブロンドの髪をかき上げていた。
「時間通りね、ウリエル。タイムスケジュール、完璧」
上階のバルコニーから、黒須は叫んだ。
「いや、何も聞いてねぇよ!! 職場でも何も言ってなかっただろ!」
黒須の声がした方を見上げて、ルカは天使の微笑みを返した。
「おはようございます。黒須先生。ウリエルが連絡しなくて、申し訳ございませーん。どうせ、お暇ですよね。四の五の言わずに荷物を運んでくださらない?!」
「……あ、はい」
ルカの微笑みにやられて、素直に黒須は荷物を運ぶことに従った。
段ボール。
家電。
謎に多い観葉植物。
「お前……、なんでこんなに荷物多いんだよ」
ウリエルはさわやかな笑顔で答えた。
「生活感、大事っす!」
ルカは冷たく一言。
「最低限に抑えたんだけど」
「……ま、部屋に入るならいいけどよ。ウリエルとルカの二人分だし、量も多くて当然か」
なんだかんだで、引っ越し作業は終わった。
汗だくの黒須が、外廊下で大きく伸びをした。
荷物運びは、30代の腰にはこたえたらしい。
「いやー……お疲れーーーでしたぁ」
ウリエルは、笑顔で感謝した。
「黒須さん! ありがとうございました! 隣にいるんで、いつでも声かけてくださいね!」
「お、おう……。じゃ、俺はこれで」
黒須は、ウリエルの隣の自分の部屋の玄関を開けた。
その時……、
なんとなく誰かが、黒須の背後に立っている気配がした。
「……?」
振り向くと、ルカが後ろで笑顔で立っていた。
「……あれ?……ここ、俺の部屋」
「うん、知ってる」
「……?」
ルカは、何でもないことのようにさらりと言った。
「隣に住むのは、ウリエルね」
「そうなんだ……? 君は違ったんだ」
「わたしは、黒須先生と一緒に、ここに……」
「えーーーー!?!? ちょ、ちょい待ち! 同棲!? いや、聞いてない!!」
「うん、言ってない。今言った」
ルカは、しれっと言い切り、黒須の横をすり抜けて、あっという間に部屋に入ってしまった。
「ちょ、ちょっと待て!! 勝手に入るな。合意とか! 手続きとか!!」
ルカは振り向いて、ニコッと笑った。
「世界は救われたでしょ」
「それとこれは別だろ!! 意味わかんね」
ルカはコートを脱ぎながら、ちらっと黒須を見た。
「命あるもの、いつ死ぬかわからない。毎日が終末だって、今回の事件で学んだわ。黒須先生も、生徒たちにそう説いていたじゃない」
「……」
「だったら、後悔しないように、毎日を大切に生きないとね」
黒須は、しばらく固まっていたが……、うつむいたまま笑った。
「……ずるい女だな」
「天使はズルくない。天使はいつも清く正しい。ズルいのは堕天使のほうでしょ」
「何が!」
「あなたは、天使エージェントのハートを盗んだ。モーセの十戒。
第8戒 盗んではならない。償ってもらわないとね……」
「ハートぉ? そんなもん盗んだ覚えは無い。それに、ちょっと待て。俺はすでに堕天使だ。何を償っても許されない存在だ」
「あら、それにつきましては、別紙こちらの書面に、ミカエル上官からの特約事項があってね。ほら、ここ」
ルカから渡された天界の書類に、黒須は目を通した。
「堕天使黒須サトル。モーセの十戒の第8に違約した。だが、神の大いなる愛を持って恩赦する。恩赦に付き、特約を付ける」
「特約?」
「天使エージェント、ルカ・セラフィムと、人間界で共に暮らすこと。
並びに天界との往来することを許可する。ただし、厳守すべき条件がふたつ。
一、悔い改め善き行いをすること。
二、ルカ・セラフィムを……幸せにすること? 神の代行、ミカエル上官」
文面を読んで真剣に悩む黒須の目の前を、ルカは平然と素通りした。
そして、以前来てよく知っている部屋のドアを指さした。
「ここ、黒須先生の寝室だったわよね」
「あ、うん。おい、寝室のドア開けるなよー。散らかっているし、まだ、俺たちはそういう関係じゃな……」
どぎまぎしながら、ドアの前に立って、ルカが入らないように拒否した。
すると、ルカは、向かいの部屋を指さした。
「知ってる。ここ、空いてるよね。私の部屋、ここね」
「あれ、そうなんだ」
「じゃ、ちょっと着替えるから、あっちに行って」
ルカは、自分の部屋と決めた部屋に入って、黒須の目の前でドアを閉めた。
黒須は、かなり戸惑っていた。
(え……どういうこと? ルカが俺の部屋で一緒に暮らすって言うけど。なんであんなに冷静なんだ。俺一人で舞い上がっているだけでは……、ああ、そうか。これは同棲じゃないんだ、これは。シェアハウス的な? やっぱ、お互いのパーソナルスペースって大事だよな。なるほど……)
自分なりに納得した黒須だった。
とりあえず、引っ越し作業でかいた汗を流そうと、何時もの癖でリビングにて、Tシャツを脱いだ。
そのタイミングで、ルカがドアを開け、上半身裸の黒須と鉢合わせした。
「きゃーーーー!」
「うぉ! ご、ごめん。そんなつもりは……」
「よくもまぁ、わたしの前で、そんなきったねえ体を晒せるわね。そのへんの豚のほうがよっぽど見られる体してるわよ、豚野郎!! 旧約聖書時代のアバターの肉体美は嘘だったのかよ? 何とか言え、この嘘ダビデ!」
「ご、ごめん。ちゃんと脱衣ルームで脱ぐね。アバターはアバターだから……、」
黒須の心の声―(普段の生活しているだけで、こんなに罵ってもらえて、シェアハウスって最高だな)
ルカの心の声―(え、えー! やっぱ同棲って、裸とか日常的に見れちゃうの? 同棲なんてやっぱ、無理無理無理無理!)
ルカは自分の部屋に戻って、ひとりドキドキしていると、黒須がドアをノックした。
トントントン
「さっきはごめん。大丈夫か? ルカ、なんかさ、飯どうする? 外食がいいか?」
「はぁ?! さっそくわたしに料理させようっての? わたしはあんたのメイドじゃないわよ! 勘違いするな」
「ご、ごめん……、俺が作るね。俺、魚の三枚おろし得意だし」
黒須は、キッチンでエプロンをしめた。
彼の頬は紅潮していた。
ルカの声がした。
「ねえ、今、魚の三枚おろしって言った?」
「ああ。魚……嫌いか?」
「マッチングアプリで、画像見たことがあるわ。すごいよね。確かにすごいけど、初めて彼女に作る料理とは違うと思うわ」
「何故? それを……」
「何故って……、それは……」
――ピンポーン!
そのとき、隣の部屋ウリエルがインターホンを押した。
「黒須さーん、ルカ先輩います? ぼく、今から子ども食堂の手伝いに行くことになったので、ルカ先輩と黒須さん、どうぞお二人でご飯食べてくださーい。先輩によろしくー!」
「ああ、わかった。伝えておく……だってよ。……どうする? 君の好きな料理を作るか。食前酒、パスタ、肉料理、ドルチェ……」
「月並みね」
「そうか、温玉入り牛丼の並みがいいんだね」
「いや、そうは言っていない。まず、その包丁、どこかに置いてくれる? 危なくて近づけない」
黒須は、包丁をシンクの中に置いた。
「はい、どかしたよ」
「よかった。これでくっついても大丈夫ね」
ルカは黒須の肩に頭を寄せて、甘えた。
すると、黒須はそ-っと彼女の肩を抱いた。
「あのなぁ、ルカ。3秒だけ動かないでくれる?」
「ん?」
「シーッ」
「ん……」
黒須は片手をルカの腰に回して、唇に優しくキスした。
「ごめん、キス……、しちゃった」
「……、バーカ」
黒須は、胸の奥で静かに思った。
(……世界を救うより、よほどの覚悟がいるぞ。こりゃ)
「え? やっぱりダメだった?」
「堕天使、黒須サトル。勘違いしているようだから、教えてあげるわ。
天界特約付き許可書は、わたしが甲なの。黒須先生は乙だ」
「甲……、乙……、どうした急に……、難しいこと言い出して」
「つまり、天使が主体者ね。あなたは天使のしもべだ。
これからは、ちゃんとわたしの言うことを聞きなさい。
わたしが黒須先生と暮らすということは、わたしが、堕天使黒須を飼っている……、そういうことよ。わかった?」
黒須は顔を耳まで真っ赤にして、口元でにやりと笑った。
「はい」
「本当に、分かってる?」
ルカは、目の前の黒須のチョーカーに細い指を差し込んで引っ張った。
黒須の首が、ルカの顏へ引き寄せられた。
そして恍惚の顏で返事した。
「はい」
黒須サトルにとって、この天使エージェントに飼われることは至福の喜びらしい。
恋愛偏差値0は、偏差値80とベストマッチングしたようだ。
―完―




