第118話 ゴール 国立競技場
国立競技場のスタンドは、すでに人で埋まっていた。
制服姿の高校生。
スーツ姿の教師。
ジャージのまま駆けつけた社会人。
ベビーカーを押した親子。
そして、ただSNSで流れてきた告知を見ただけの、何の関係もない人たち。
黒須はスタンドを見上げ、短く息を吐いた。
「……来たな」
事前に、ほんの一言だけSNSに流した。
《今日、国立競技場で、生徒が“世界の答え”を走ります。応援できる人は、来てください》
黒須が流したメッセージは、それだけだった。
だが、人は集まった。
理由なんて、誰も聞かなかった。
ただ「何かが起こる」と感じて、来ただけだ。
……と、黒須は思っていた。
実際は、ルシファーによる慈善活動と、ウリエルが黒須のアカウントに入って、このメッセージにたくさんのタグを付けたからだ。
《#世界の答え #人類代表 #最後のレース #運命の瞬間 #未来への選択 #今ここで #見届け人募集 #国立競技場 #観戦自由 #応援歓迎 #入場無料 #東京イベント #感動確定 #見ないと後悔 #詳細はこれから #今からでも間に合う #なんかすごいらしい》
実際には、この投稿にはこんなハッシュタグが五十個以上、これでもかというほど付けられていた。
もちろん、黒須の記憶には、その半分以上が存在していない。
一方……
反対側のスタンドも、同じように観客で埋まっていた。
それは、ルシファーの背後にいた、かつての“しもべ”たちだった。
子分と呼べる者もいれば、ただ彼の思想に魅せられた純粋なファンもいる。
力。
知性。
カリスマ。
それらを求めて集まった人々だ。
(と言っても、普通のおばちゃんたちが大半だが)
国立競技場に集まった人々は、観客は固唾をのんで待っていた。
先に入ってくるのは、ルシファーか。
それとも、ダニエルか。
ウリエルのアナウンスが、場内に響いた。
『えー、皆さま! 大変お待たせいたしました。いよいよ両選手とも競技場ゲート前を通過したとのことです。さて、ハルマゲドン・レース、最終局面です! まもなく、両者が入場します! 先に姿を見せるのはルシファーでしょうか。ダニエルでしょうか!』
次の瞬間、二つのシルエットが見えて来た。
二人は同時に、国立競技場の外周コースに姿を見せた。
「上等だ」
ルシファーは、国立競技場に入るなり、自分の応援団を見てニヤリと笑った。
爆発音のような大歓声が、どどーーっと湧いた。
「ダニエルーーーー!!」
「ルシファーさまーーー!!」
「がんばれーー!!」
「ダニエルくん、かっこいい!」
「ルシファーさまー、ラストスパートだぁーー!
光の中で陸上用のトラックを、二人は並んで走った。
ゴールは、ここを半周だ。
その時、ルシファーが、隣で走りながら低い声で囁いた。
「ダニエル」
「……」
「世界の頂点に立つ気はないか」
ダニエルの足が、ほんの一瞬だけ乱れた。
「君がその気になれば、なれる。選ばれた存在として、人の上に立ち、裁き、導く側に。もろん、わたしがサポートする」
ルシファーの口元が動いていることに気づいたのは、ルカだった。
(ルシファーが、ダニエルに何か話しかけている……誘惑してる)
ルカは、ウリエルと通信した。
「……ウリエル、盗聴して」
―「了解っす」
ウリエルの解析が、即座に黒須の端末に送られてきた。
スマホを開いて内容を読んだ黒須の指が、ぴくりと動いた。
(……言いやがったな)
怒りがこみ上げてきた。
だが、黒須は動かなかった。
「ちょっと、黒須先生。このまま見逃すつもり? これはルシファーの罠よ」
「……信じろって言ったのは、君じゃないか。あいつは、俺の生徒だ。転校してきた頃とは違う。確実に成長しているはずだ」
「何よ。今度はいきなり大人?」
黒須は、ただ黙って見守ることにした。
担任の黒須がそう決めたのなら、
黙ってルカも祈るように見守ることにした。
レースはデッドヒートだった。
二人の距離は、ほぼゼロ。
ゴールラインが遠くに見えたところで、ダニエルは、はっきりと答えた。
「ピラミッド型の頂点……は、僕たちが……ひっくり返しますよ」
ルシファーの目が、見開かれた。
「……何?」
ダニエルは、息を切らしながらも、言葉を続けた。
「底辺の僕たち、……ひとりひとりが神になる時代が来ます。いえ……もう、その時代に……なっています」
息を切らしながら、ダニエルはルシファーからの誘惑的質問に答えた。
「日本人は………無宗教なんかじゃないですよ………」
ダニエルが何かを言っていることは、なんとなくスタンドの人たちにも伝わった。
スタンドのざわめきが、徐々に静まっていく。
「春夏秋冬……天の恵みに感謝することが多すぎて、……生活と……一体化していて目に見えないんですよ」
ダニエルは、前を見たまま、力強く断言した。
「ひとりひとりが神なんです!」
そして、最後に……、
「そして……その代表は……毎日祈ってくれている方です。世界のどんな王もかなわない祈りの力があるから、終末なんて関係ないんですよ。神はね、……」
ダニエルは自分の胸を拳で軽く叩いた。
「ここにいます」
その瞬間、ルシファーの足が、もつれた。
ルシファーの思想が、……価値観が、根こそぎ揺さぶられた。
彼は、コースで転んだ。
もつれた足は体を支えきれず、土埃を建ててグランドにうつ伏せになった。
スタンドが、どよめいた。
「「「おおおおおぉぉぉっ!」」」
ダニエルの足が……止まった。
そして、引き返した。
「……何をしている! ダニエル! ゴールしちまえよ!」
誰かが叫んだ。
だが、ダニエルはルシファーが転んだ地点まで戻ると、静かに手を差し伸べた。
「ルシファー先生」
ルシファーは、呆然とその手を見上げた。
「同情なんかじゃありません。僕、勝ち負けは好きじゃないんです。一緒に……ゴールしてください」
沈黙。
国立競技場は、無音状態になった。
やがて、ルシファーは、自嘲気味に笑った。
「へっ……君は、本当に………」
ルシファーは、差し出された手を見つめた。
「面倒な生徒は大嫌いだ」
そう言うと、その手を取って、ゆっくりと立ち上がった。
そのとき、観客席からルカの声が聞こえて来た。
「ルシファー、あなたへのミッション! 一緒にゴールしやがれーー!! 」
その声に、ルシファーは顔をポッと赤くして、しょうがないなぁとでも言うように、伸びをした。
「どうやら、わたしの契約者の命令があった。ダニエル、行くぞ」
そして、ダニエルとルシファーは並んで、最後の直線を走った。
国立競技場が、揺れるほどの歓声だった。
誰かがこの瞬間を動画にとって、SNSに流した。
黒須は、目を伏せて、小さく笑った。
「……ああ、これでいい」
黒須の優しくてピュアな琥珀色の瞳が、ゴールするダニエルとルシファーを見ていた。
「これが、ダニエルが出した答えだな。俺なら合格点やる」
Λ(ラムダ)の声が、空中のどこかで、静かに響いた。
Λ
『最終判定フィールド、展開』
『最終判定。“人類”は、神を否定せず、神を独占もしなかった』
『……存続、承認』
ダニエルとルシファーは、手を繋いで一緒にゴールテープを切った。
黒須は真っ先にグランドに降りて、ダニエルとルシファーに抱き着いた。
「ダニエル―! ルシファー! お前ら最高だぁ!」
「ちょ、ちょ、ちょっ、黒須先生、苦しいよ」
「おい、抱き着くな、黒須! 気持ち悪い! 普通ここでバスタオルだろ!」
ウリエルは実況中継を終えて、観客席でルカの横に座っていた。
「やっぱ、あれっすねー。ダニエルをここまで成長させた黒須さんって、すごいっすね。先輩。……先輩? あれ? ルカ先輩? どうしました?」
ルカは、グランドに降りて喜んでいる黒須をじっと眺めていた。
「やっぱり、あの時、消さなくて正解だった。最初に見た時はポンコツかと思ったけど、なかなかいい線いってるわよね、黒須先生って。そう思わない?」
「ルカ先輩……。すごいっすよね。ルシファーが最後に走ったのは、先輩の命令っすよ。先輩は黒須さんだけじゃなく、ルシファーまで完全攻略しちゃいましたよ。さすがっす」
「あ、そういえば! あ、あのハッシュタグ、天界に関係するワードは全部削除しといたからね」
「ええええ! そうだったんっすか?」
「当然でしょ。ミカエル上官とガブリエルって、意外とSNSを見ているからね」
「ふぅーん、じゃあ、今日も応援しに来ればよかったじゃんね」
「……そうね。案外、近くに来ているような気がするわ」
「え……マジで?」
国立競技場を見下ろすルーフの上から大天使は、全てを見ていた。
「神の留守中にΛ(ラムダ)を使おうなんて、ルシファーにしては考えが浅かったな」
「金のために動いたのだろう。この国には終末思想はないと知っているはずだ。わざとやったのかもな」
「ガブリエル、飲み仲間が疲弊してるぞ。どうする、助けに行くか?」
「そうだなぁ。……神が帰ってくる前に、飲み会……いや、反省会するか。ミカエル、君が行けよ。部下が喜ぶぞ」
「ガブちゃんもそうとうツンデレだな。君こそ、何かしてやれよ」
「何かってアレか。ミカちゃん」
ハルマゲドンは終わりではなかった。
と言うよりも、始まりがなかったから終わりも無かった。
もともと日本人には終末思想がないのだから、人類最終戦争が起こることはない。
人間が思考しないことは起こらない。
それが、この世界の選んだ答えだった。




