第113話 3区→4区 クールダウンタイム
四谷交差点で信号待ちをしているとき、ダニエルの呼吸が乱れてきた。
「はぁ……はぁ……先生……ちょっと……キツい……」
「おい、大丈夫か!? 無理すんな!!」
「黒須先生、ちょっと道開けてください! ちょうど四谷よ。目の前に教会があるわ!」
その時……
ゴォォォォン……
聖イグナチオ教会の鐘が響いた。
Λ
『心拍数上昇。強制クールダウン推奨』
「よし、ダニエル。教会に入るわよ! ウリエル、聞こえる? 水持ってきて。さっきCMしてた怪しい飲料じゃなくて、水にしろ!」
―「怪しい飲料って……、了解。只今、水を持って行きます。場所は、聖イグナチオ教会でいいっすか?」
「ええ、急いで! 男どもは、ダニエルを運んで」
「よっしゃ!……って、あれ? 運んでもいいけど……、俺とルシファーは……?」
「あ、お御堂には入れないわ。堕天使だったわね」
「知ってたけど!! 言い方ァァ!!」
ルシファーは涼しい顔して、すましている。
「生徒を運ぶのは黒須に任せる。わたしは興味がない。神の家など、わたしが入ったら煙が出るだけだ」
「俺は出ねぇよ!? たぶん!!」
「敷地内までなら……入れるでしょ」
「保障する?」
「ミカエル上官の名にかけて!」
「……、わーった。ルシファー反対側持ってくれよ。大切な生徒であり、大切な封印を解いた覚醒者だぞ!!」
「それを言われちゃ、しょうがねえな」
黒須とルシファーは、ダニエルを抱きながら四谷の交差点をわたった。
ウリエルは、荷物と一緒に瞬間移動してきた。
ルカとウリエルが、黒須からダニエルを受け取り、教会内に運んだ。
ルカは、オロオロしている黒須を叱った。
「黙って待ってろ!! ダニエルの邪魔!! 聖域なんだからしょうがないでしょ!」
「はい!!」
ルシファーは小さな声でつぶやいた。
「素直だな……ほんとにお前は天使より天使らしい」
「なんか言ったか?」
「何も言っていない」
ダニエルは聖堂内の椅子に座り、しばらく肩で息をしながら天井を見上げた。
外の喧騒が嘘のような静けさだ。
ステンドグラス越しの光が柔らかく差し込み、ダニエルの汗を光らせていた。
ダニエル
(ここ……落ち着く……)
ルカは、椅子にダニエルの体を横に寝かせた。
祈りの席で、ぽつりぽつりと信者たちが、祈っていた。
それは、神と対話しているのか、それとも無の状態なのか、外観からはわからなかった。
ダニエルは、は深呼吸をしながら、信者たちを真似て目を閉じてみた。
(僕は、日本に来て今の学校で、何のために学んでいるんだろう……そして、どこに向かうんだろう)
誰か、他の信者が聖堂の扉を開けると、外の声がかすかに聞こえた。
それは、黒須とルシファーの言い争う声だった。
だが、ルカはずっとダニエルの側にいて、癒しの祈りを捧げてくれた。
扉がきちんと閉まると、また静寂が戻って来た。
教会の中のダニエルは、その喧噪とは全く別の静かな時間の中にいた。
しばらく、目を閉じてダニエルは寝ているかのようだった。
まるで、生まれれて来る前の、羊水に浸っているようだった。
お御堂の空間は、ダニエルには宇宙に思えた。
(僕は誰? 何のために生まれて来たの?)
心の中で問うてみたが、明確な答えは帰ってこなかった。
まるで、母の羊水の中では、息もできるし、心臓のリズムも静かになっていた。
どれだけ時間が経ったのだろう。
息が整い、心も落ち着いた。
(僕……わかった気がする)
ルカはただ頷いて、扉へとダニエルを誘導した。
ダニエルはゆっくりと立ち上がり、扉へ向かった。
扉を開けて、外に出ると、黒須とルシファーは、火傷しないように、敷地の端っこの方で座っていた。
ウリエルはダニエルに気づくと駆け寄って来た。
「大丈夫? まだ休憩しててもいいんだよ」
ダニエルは光の中を歩きながら、自分のリュックから半分飲んだペットボトルを取り出した。
「Λ(ラムダ)。僕、答えるよ」
Λ
『説明せよ。学ぶ理由とは何だ』
ダニエルは水を掲げた。
「これ、水だよね」
黒須は呆気にとられた。
「ペットボトル……?」
「でも、学ぶと“ただの水”じゃなくなるんだよ」
彼は一つずつ指を立てていく。
「ひとつ。物理学なら、これは H₂O。化学結合とか分子の形までわかる」
「ひとつ。生物や医学なら、水分補給で代謝が上がる とか、体のどこが動くのかがわかる」
「ひとつ。地理なら、どこから来た水なのかを知ることが出来る」
「ひとつ。文学なら、『喉を潤す』『乾いた心にしみる』って、別の世界の水に変わる」
「そして、黒須先生、ひとつ。歴史なら、水が争いを生むこと も、文明を作ったこと も学ぶことが出来る」
ダニエルはふっと笑った。
「でも、学びが足りなかった頃の僕は……、これを“飲んで終わり”だった」
ダニエルはペットボトルに残っていた水を飲みほし、空のペットボトルを放り投げた。
黒須は慌ててそれをキャッチした。
「……こら! ここで捨てたら、ダメだぞ」
「うん、という社会的マナーも学べる」
ルカは、静かに聞き入っていた。
ダニエルは笑いながら、黒須からペットボトルを受け取った。
「ポイ捨てはしませんよ。黒須先生ならキャッチしてくれるって思ったので……。わざとです。
つまり、学ぶって、世界の見え方を増やすことなんだと思います
知れば知るほど、同じ物が別の意味を持つ ようになる。
そしたら……、世界がちょっとだけ面白くなる」
彼はペットボトルのキャップを外して潰した。
「僕が学ぶ理由はね。世界を面白くしたいからだよ。知らないままだと、つまらないまま終わっちゃう。生まれて来た世界をつまらないまま終わらせていいのか? もったいないと思いました」
黒須は感動していた。
「……ダニエル……それは、すげぇわかる……!」
ルカも目を伏せ、小さく微笑んだ。
「素敵な答えね」
Λ(ラムダ)はしばらく沈黙した。
Λ
『解析中……。同一物体に複数の意味付けを行う“多面視点思考”。これはAIにとって……』
Λ
『再現困難。』
黒須がタオルを放り投げた。
「おい、Λが珍しく素直に認めたぞ……!」
ルシファーは、そのタオルを親切にも拾ってあげた。
「あ~ぁ、黒須が取乱してどうする。人間が物に意味を与える……ふむ、悪くない考えだ」
Λ
『最終判定。第3区……人類代表ダニエル、合格』
ダニエルはほっとして、黒須によりかかった。
「よかった……黒須先生」
黒須は、ダニエルの肩を抱きながら褒めたたえた。
「よかったじゃねぇよ!! お前すげぇよ!!! なんだ、その水の授業!! 俺より上手いじゃねぇか!! こんど、G組でもやってくれよ」
ルカは笑顔で確認した。
「黒須先生、それは褒め言葉でいいのよね?」
「もちろんだよ!!! んーー、だけど、ちょっとばかし、俺よりうまくて……、嫉妬したかな? お御堂の中なにがあった? ルカ」
「業務秘密です。わたしでも説明不可能なことよ」
ダニエルはリュックをウリエルに渡した。
すると、リュックの中からロクさんが顔を出した。
「だんなァ、教会ん中じゃ、あっしはおとなしくゴロッと寝てやした。まァ、それでよろしかったでござんすよね?」
「あっ、ロクさんが中に入ってたの、すっかり忘れてた。平気だったかい?」
「なんだかよォ、チクチクして落ち着かねぇもんで、もうえいやぁって、寝ちまいやした」
「まったく、しょうがねぇヤツだなァ。まあ、獣のロクさんが無事なら、それでいいや。……なぁ、ルカ先生?」
ルカはダニエルに同意を求められて嬉しかった。
「ようござんす! 3区クリアです!! 次、行ってみよう!!」
「うん……行こう!」
教会の光を背に、彼らは次の区へ走り出した。




