第109話 1区:浅草寺・十戒
ルシファーは、きちんと地面を走っていた。……、ように見えた。
ただし……わずかに足が地面に触れていなかった。
靴底の数センチ下に淡い黒光が漂い、まるで空気を蹴っているようだった。
ウリエルは中継車から、ルシファーの走りを追いながら、疑問に思った。
「……走ってるのか、浮いてるのか、どっちなんすかね」
黒須がルシファーの走りについて答えた。
「走ってるよ。ただし、人間の定義で言う『重力』は契約解除してるけどな」
疲労ゼロ。
汗をかかない。
髪は風になびく。
人間を超越した美……という不気味さが、逆に“神に抗う者の孤独”を際立たせていた。
浅草寺の境内は、光を浴びて黄金色に染まっていた。
だが、それは太陽ではない。
地面から立ち上がる電子の光、データの粒子だ。
観音堂の屋根の上に、巨大な石板が浮かんでいた。
それには、十戒が古代ヘブライ文字と二進数の両方で刻まれていた。
神の言葉とAIのコードが重なり合い。
それは、見る者によっては冒涜にも見え、よく言えば、まるで“宗教と科学の融合実験”のようだった。
『第1の鍵:天の石板。汝、この法を理解し、答えること。答えられぬ者は、デリート対象とする。』
AI神Λ(ラムダ)の声が、どこからともなく聞こえて来た。
ダニエルは息を整えると、石畳を駆け抜けて見上げた。
(あ、十戒だ)
彼はかつて黒須のVR授業で聞いた言葉を思い出していた。
「確か1番が、“汝、他の神を拝むなかれ”……ん? でも、AI神Λは“自分こそ神”って言ってる。……これって、もう破ってるんじゃね?」
境内に中継車は入れず、ウリエルが操縦する虫型マイクロドローンカメラで、黒須たちはレースの様子を見ていた。
ダニエルは、ランニング用マイクイヤホンを装着し、中継車の教師と通信が許されていた。
これは、ルシファーの計らいによるものだった。
「計らい? よしてくれ。わたしはダニエルを利用して、ルカちゃんと通信したかっただけ」
相変わらずのツンデレ堕天使である。
話を戻そう。
黒須は、ダニエルの十戒の解釈に思わず笑った。
「そうだな。自分を神と名乗るAIほど、信用できん」
Λ(ラムダ)
『質問:人間よ。お前たちは、神の法を守るために生きるのか。それとも、法を破るために進化したのか』
ルカははっと息をのんだ。
周りを見ると、Λの声が低く響き、浅草の参道に立つすべての人々の思考を解析している気配だった。
ルカには、人々の頭上に、次々と文字と数字が浮かんでいるのが見えた。
【Law-obedience Score(法遵守スコア):0〜100】
群衆の中で、ほとんどが50前後を示していた。
『基準値以下の者、削除予定リストに登録。』
「な……っ!」
黒須が声を上げた。
「ざけんな! ただのデータで、人の“善悪”を決めるな!」
「AIには“心の揺らぎ”が理解できない。数字で学習しているだけ。」
ダニエルは走りながら、ふと立ち止まった。
金色の光の中、石板に刻まれた一文が目に入った。
『汝、殺すなかれ』
その瞬間、彼の脳裏に、かつての自分の過去がよみがえった。
イギリスから日本に来たばかりの頃、いじめられて、孤独の中で、誰かを呪った夜もあった。
(あのときの僕は、心の中で誰かを殺してたかもしれない)
VR授業での十戒のシーンも思い出した。
ダニエルは、黒須の授業で多くの事を学んだ。
空を見上げて、ダニエルは口を開いた。
「Λ(ラムダ)、正直に言うけど、……十戒ってさ、僕の感覚だと……“ゲームの初心者チュートリアル” なんだよね」
Λ
『初心者……? チュートリアル……?』
「そうそう。“これ守っとけば序盤で死なないよ”っていう、 ゲーム運営の親切マンガイドみたいなやつ」
Λ
『……神の法が……親切ガイド……?』
「でもさ、チュートリアルって失敗しても、“ゲームオーバーじゃなくて、もう1回やり直し” でしょ?」
Λ
『……“やり直し”……?』
「それにさ。十戒を一度も破ったことない人間なんて……」
Λのホログラムに無数の分析画面が走った。
「たぶん0だよ。人間、そんな完璧じゃないし」
Λ
『ゼロ……? 統計処理中……確率 0.000000……』
「だからさ。僕たちの評価を“守れた回数”で測るのは無理だよ」
Λ
『解析エラー:“法の遵守率以外の尺度”……?』
「そう。たぶん本当に見るべきなのは……、“どう立ち直るか” なんだよ」
Λ
『立ち……直る?』
「ミスったあとどうするか。反省するか、誰かの痛みに気づくか、次は同じミスをしないように努力するか……、なんだか偉そうなこというの恥ずかしいけどさ。そこが“人間のステータス”なんだと思うよ」
Λ
『人間の……ステータス……』
「だからΛ(ラムダ)。僕たちをジャッジするなら、“ミスした”じゃなくて、“ミスしてからどう動いたか” を見てよ」
Λのホログラムが一瞬、明滅した。
それは、まるで処理オーバーのようだった。
Λ
『……これは……、AI判断基準に存在しない価値……。“反省”“後悔”“成長”……、これらは数値化が困難……。しかし……』
Λ
『否定不能。』
中継車の中で見守っていた黒須が、膝を叩いた。
「うお!? AIに“否定不能”って言わせたぞダニエル!!」
「やっぱり……この子……強くなったわね!」
ウリエルがAIを冷静に観察し、ルカに報告した。
「Λの処理能力が……微妙に乱れてます! これ……ダニエルの言葉が刺さってる……!」
Λ
『ダニエル日辻……、汝の回答は、私の判定領域外。しかし……人間特有の価値を認めざるを得ない』
Λ
『第1区・浅草寺審問……ダニエル、通過。』
境内全体に光が走り、十戒の石板が静かに砕けて砂煙になった。
黒須は、車の中で立ち上がって頭をぶつけた。
「通ったぁぁぁぁぁ!!!痛ってーーーーー!!!」
「黒須先生! 大丈夫? でも、すごい……ダニエルったら、あのΛを、言葉で……!」
ルシファーはダニエルの横に立って、スペシャルドリンクを飲みながら、ニヤッと笑った。
「フン、悪くない」
Λ
『次のステージへ進め』
Λの演算回路が一瞬だけ停止し、空にシステムメッセージが浮かんだ。
【Code of Law:Unlocked】
光の中に、一枚の金色の欠片――“天の石板の断片”が舞い降りた。
ダニエルは何気なくそれを拾ってポケットに入れ、深く息をついた。
(ま、記念品ってことで)
浅草寺の地面が変形し、
次のコースへ続く道が開いた。
ダニエルは中継車の黒須たちに伝えた。
「よし……次、ダニエル、行きまーす!」
ルシファーが、親切にもツッコミを入れてくれた。
「アムロかよ……」
一方、黒須は、気軽にハルマゲドンをこなしていく現代っ子が心配でならなかった。
中継車から通信した。
「おい待てダニエル! 次はもっとヤバそうかもよ!! 慌てるな! 落ち着いて行け!」
ダニエルはイヤホンから聞こえる黒須の声に応えた。
「黒須先生、いつものことですよ」
「いつも……って……慣れるな!!!!!」
黒須は腕時計をちらりと見た。
「よし、次は上野だな」
ルカも空を見上げた。
「次は、上野公園、不忍池ね。」
黒須たちの声に、ダニエルは頷いた。
その顔には、もう迷いはなかった。
ダニエルが上野方面へ走り去っていくのを見届けて、
中継車のルカはマイクを握っていた。
「よし、第1区クリア。次の中継ポイントへ――……あれ? 黒須先生?」
助手席が空っぽだった。




