第102話 イスラエル建国とイェルサレム問題
今日の授業は、現代のイェルサレムを見てみようという内容だ。
黒須は、教室に入るとさっそく授業を開始した。
「前回、ディアスポラについてやりました。
ローマの支配下にあったユダヤ人は、ローマに激怒され、『おまえらユダヤ人はパレスチナの地から出て行け!』と追放された。
それで、ユダヤ人は世界各地に離散した。こうして、ユダヤ人は国を持たず世界を放浪する民となった。ここまでだったな」
生徒たちは、中東地域の地図を見ながら、前回の授業を思い返していた。
「それからどうなったかと言うと、ローマが衰退して、このパレスチナはが権力の空白地帯になっていた。
地図で言うとここアラビア半島な、ここ。アラブ人は7世紀のはじめ、ムハンマドと言う人がイスラム教を始めた。それが勢力を拡大させて、誰もいなかったパレスチナの地へもアラブ人は進出した。そして、パレスチナに住むアラブ人も、パレスチナ人と呼ばれるようになったんだ。
だから、聖書時代のパリシテ人とは住んでいる場所は同じだが、民族は違う。
今のパレスチナ人は、イスラム教徒のアラブ人だ。
こうして、パレスチナの地は、三つの宗教にとって重要な聖地なんだよ。
はい、三つの宗教とは、……言える人いるかぁ―」
生徒たちが、ゆっくりと手をあげた。
「おい、これだけしかしないのか、答えられるやつ。じゃ、VRやめるか。ウリエル撤収!」
生徒たちは、勢いよく手を上げて叫んだ。
「「「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教!!!」」」
「おい、鼓膜敗れる……。正解だ。じゃ、ウリエル、この生徒たちの情熱に応えてVRスタート」
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教室が暗くなり、ウリエルの声が静かに響いた。
―「今日は、現代です。時差があるので、明るい時間の現代の聖地イェルサレムに行きます。
ただし、実際の映像をベースにしているので……心の準備をしてください」
生徒たちは不思議に思った。
今までもさんざん残酷なシーンや、目をそむけたくなるシーンがあったのに、何を今さらという気持ちだった。
光が集まり、教室はまばゆい白い石畳の街に変わった。
上空には乾いた風。
銃声のような破裂音が遠くでこだまする。
爆弾が落とされたのか、爆発音がした。
生徒たちは息をのんだ。
黒須の声が、低く、静かに響いた。
「――ここが、エルサレムだ。
1948年、第二次世界大戦後、再びユダヤ人はパレスチナの地に戻って来た。
そして、イスラエル、ユダヤ人の国イスラエルの建国が認められ、現在に至る。
三つの宗教の聖地が重なる場所だ。
ユダヤ教の“嘆きの壁”。
キリスト教の“聖墳墓教会”。
イスラム教の“岩のドーム”。
そして――この三つは、たった数百メートルの距離に並んでいる」
女生徒が小さくつぶやいた。
「……近すぎる……」
ルカは補足で説明した。
「まずユダヤ教。その大昔、アブラハムがイサクを生贄に捧げようとした地に、ソロモン王が神殿を建てました。これを第一神殿といいます。しかし、この神殿はバビロン捕囚後に破壊されてしまいました。のちに再建された第2神殿も破壊されてしまします。そして、西側の壁だけが唯一残ったのです。これが嘆きの壁です」
ウリエルがキリスト教の説明をした。
「初期はキリスト教を迫害していたローマでした。それでも、キリスト教は庶民の間に広まっていきました。そして、4世紀にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したのです。
イエスの死後は、弟子たちの手でイェルサレムに墓が作られていました。それがこれじゃないかという伝承に基づいて、コンスタンティヌス帝はそこに壮大な聖堂を建てました。これが聖墳墓教会です」
黒須が最後にイスラム教の説明をした。
「イスラム教の創始者ムハンマドが昇天したとされる岩がある。
ムハンマドはメッカの商人の一族だった。ある日夢でメッカからイェルサレムの岩の上に飛んできて、そこから光の梯子で天に昇り、神アッラーに謁見した。
その岩をドームで囲ったものが、岩のドームだ。
ただなー。この岩はアブラハムがイサクを生贄にしようとした岩で、そこにイスラム教徒は岩のドームを建てたんだよ。
つまり、この岩のドームって、かつてユダヤ教の神殿があった場所ってことなんだ」
生徒たち。
「複雑……」
「めんどうだな」
黒須は、生徒たちの声が聞こえると、本音で話した。
「そうだ。どの宗教も、“ここが神の居場所だ”と信じている。だから、誰かが“自分の神のため”に動けば、他の誰かの“神の場所”が奪われる」
映像が三つの聖地を写しては切り替わる。
古代の神殿跡、十字架、そして金色の岩のドーム。
どの信者も祈り、どの信者も敬虔な祈りを捧げていた。
ルシファーがふう、と息をついた。
「まったく、神様も不動産トラブルには弱いね。共有名義の土地ほど面倒なものはない」
ルカが注意した。
「あなた、真面目に見なさいよ!」
「見てるさ。ただ……これ以上は、報告書に書けんな。」
黒須は視線を落とし、言葉を選ぶように話した。
「歴史を教えるのは簡単だ。でも、“いま起きていること”を教えるのは難しい。なぜなら、そこに“誰かの正義”があるからだ」
生徒たちは黙って、ルシファーの話を聞いていた。
スクリーンに現代のニュース映像が映った。
飢餓、デモ映像、抗議、SNSの断片、処刑……無数の視点。
「イスラエル建国は、第二次世界大戦後だと、さっき説明した通りだ。迫害されたユダヤ人たちは、当然、祖国を求めた。だが、その土地には、すでに別の民が暮らしていた。それが、パレスチナ問題の始まりってわけだ。」
女生徒が素朴に疑問をつぶやいた。
「……どっちが悪いんですか?」
ルシファーは女生徒の質問には答えず、黒須に譲った。
黒須は答えなかった。
チョークを手に取り、黒板に何かを書き始めた。
この黒板の字はVRの空間に浮かび上がった。
『正義は、見る角度で変わる。』
そして、ゆっくりと続けた。
「この問題を“宗教戦争”と呼ぶ人が多い。でも、本当にそうだろうか? 裏では、もっと別の力が動いている。石油、武器、国家、情報、そして……信仰の商人たち。」
ルシファーがにやりと笑った。
「出たな、“禁断の章”。教育特別顧問としては、ここで“放送停止”ボタンを押したいね」
「押すな! ここからが本題だ」
生徒たちの背後に、黒い影が映った。
スーツ姿の男女、ロゴも国旗もない機関……
世界を裏で動かす“何か。
「歴史を操る連中は、戦争を作り出す。宗教を使って、人の心を分断する。“神の名”で争わせておいて、笑っているのは、神ではなくて……人間だよ」
女生徒は言った。
都市伝説なんて信じないタイプのリケジョのマリだ。
「そんな人たちが、本当にいるんですか……?」
「さあな。……だが、“いない”とも言い切れない。」
ウリエルが小声でルカにささやいた。
「黒須先生……いま完全に地雷踏んでません? このパート、文科省アウトっすよ」
「本人もわかってやってるのよ、ルシファーを煽るってるのよ」
ルシファーはキレた。
「まったく、黒須は!! 教師なのか革命家なのか」
黒須は黒板に向き直り、静かに言った。
「人類は、神を信じて戦ってきた。だが……本当に神は戦いを望んでいるのか? それとも、人間が勝手に神を利用してるだけなのか?」
静まり返る教室。
外からは風の音だけが聞こえる。
黒須はチョークを置き、生徒たちに問いかけた。
「……君は、どう思いますか?」
マリは悩んでいた。
イワンもマルも答えを探そうとしていた。
すると、ダニエルが、うつむきながら言った。
「……僕は、神さまよりも、人を信じたいです」
黒須は微笑んだ。
「それでいい。歴史は、答えを教えてくれない。でも、“問い”を持ち続けることはできる。それが、学ぶということだよ」
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映像が静かにフェードアウトし、教室に光が戻った。
ルシファーが腕を組んで天井を仰いだ。
「ふぅ、……危ない授業だったな」
「でも、誰も目を逸らさなかったわ。ね、黒須先生」
「えっへへ。教師は“真実”を語るより、“考える種”を蒔く仕事だから」
黒須が書いた文字が黒板に一行だけ残っていた。
『君は、どう思う?』
チャイムが鳴った。
生徒たちはゆっくり立ち上がり、
それぞれの心に“答えのない問い”を抱えたまま教室を出ていった。
窓の外は、沈みかけた夕陽がエルサレムの石畳のように赤く光っていた。




