第100話 「ユダヤ人の王」そして、ディアスポラ
前回の捕囚体験から、今日の生徒たちは静かに授業の始まりを待っていた。
黒須はチョークを置き、少し笑って言った。
「……じゃあ、つづきを見ようか。“絶望のあとの希望”ってやつだ。おや、希望……どうかなー。ま、見てのお楽しみだな」
ウリエルがタブレットを操作した。
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「では、VRで“帰還モード”を起動します!」
光がゆっくりと教室全体を包み、生徒たちは再び異国の大地に立っていた。
熱く乾いた風。
遠くにバビロンの城壁が見える。
だが、群衆は逆の方向――西の地平へ向かって歩いていた。
―「50年の捕囚を経て、やがてこの新バビロニアが、アケメネス朝ペルシアに滅ぼされる。ペルシアの王キュロスは、ユダヤの民を解放した。彼らは『帰れ』と言われ、再びパレスチナの地へ戻ることになった」
ルカは歩く人々の背を見つめた。
老人も、子どもも、女も男も……誰もが、故郷に帰ると思うと足取りが軽い。
「ただいま……ただいま……」
黒須は言葉を続けた。
―「彼らはまず、イェルサレムに“神殿”を再建した。焼けた石を積み上げ、壊れた祭壇をもう一度つくった。そのことによって、イェルサレムにユダヤ教が誕生することになる。紀元前6世紀の出来事だ」
生徒の一人が首をかしげた。
「バビロン捕囚時代も信仰してましたよね。それは?」
黒須は頷く。
―「神殿は無かったが、神の言葉は、耳で聞くものだった。預言者がいて、アブラハムからモーゼからサムエル、ヨシュア……。捕囚を経験した彼らは知ったんだ。“奪われても、記録すれば生き残る”って。文字にしても、口伝にしても、 “信仰”を代々“記憶”に変えた。それが“ユダヤ教の強さだ」
ルカは、黒須の言葉を胸の中で繰り返した。
(信仰を、記憶に……)
ウリエルがそっと補足した。
―「このときにね、聖書の原型が整理されたって言われてるんです。モーセ五書――“創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記”。これが“トーラー”って呼ばれて、今も読み継がれてるんすよ。」
女生徒が言った。
「すごいね……自分たちの悲しみを、ちゃんと残したんだ。人間の失敗も全部」
黒須は静かに頷いた。
―「そう。こうして、ユダヤ教というのはこのタイミングで形がはっきりするようになる。
そして、その彼らのほとんどは、ユダヤ教に改宗したんだ。
だからそれ以降、『ヘブライ人またはイスラエル人』、という言い方はやめて、一般的にはユダヤ人と呼ばれるようになっていくわけだ」
風が吹き、再建された白い神殿の上に光が差した。
ウリエルの声が柔らかく響いた。
―「お帰りなさい、ヘブライの民――再生フラグ、立ちました。」
ルカ「ちょっと……なんでゲーム用語で言うの」
ウリエル「だって、リスポーンじゃないっすか、これ!」
ルカ「あきれてものが言えないわ……でも、たしかにそうね。」
教室に笑いが沸き上がった。
黒須はそれを見て、小さく微笑んだ。
そして、ゆっくりと黒板の前に立った。
―「さて……“信仰の国”を取り戻した彼らだ。だけど、またしても歴史は、残酷な選択をする」
教室の明かりが落ち、映像が切り替わった。
―「というのは、彼らの運命はその後も大変だったからだ。
やがて、パレスチナの地、エルサレム周辺は、またしても異国に占領されることになってしまった。
その異国の支配下に……皆さんご存じ、何子も黙るローマ帝国だ。
そうはいっても、占領されただけで、税金さえちゃんと納めていれば、庶民の暮らしに口出しすることはなかったんだ。
ローマの占領に入ったこのタイミングで、ある男が声を上げた。
『今のユダヤ教はおかしい!』
『今のユダヤ教は律法主義で、民の為になっていない!』
と、いわば宗教改革を始める男が現れた。
そいつは、ユダヤ教信者で、父母も信心深い。ガリラヤ地方の大工ヨセフと妻マリアの子として生まれた。ベツレヘムで生まれた大工だった。
名はイエスという」
生徒たちは感嘆の声を漏らした。
生徒のダニエルはメガネを指で上げて、イエスを見た。
「え? イエス・キリストはユダヤ教だったの?」
「言っとくけど、キリストと言うは苗字じゃない。まだ苗字なんてものは無かった時代だ。キリストというのは、のちに与えられた「救世主」を意味するギリシア語から来た言葉だ。だから、ユダヤ教徒やイスラム教徒は、そのイエスをキリストとは呼ばない。気を付けろよ」
「あれ? そうなんですか」
「では、ダニエルの質問に応えよう。
このガリラヤ地方は、最初のローマの宗主権の下にあったヘロデ王が治めていた。
南ユダヤ王国の行政を任された知事がいたんだけど、こいつは小心者だった。
『とにかく、わしの任期中に大きな問題を起こしてくれるなよ。数年たったらローマにかえるんだから』
そんな折、パリサイ派の祭司たちは、ローマ総督のヘロデ王に、ついにイエスをつれて行った。
ところが、このヘロデ王は、以前のヘロデ大王とは大違いの、名前だけもらった息子ヘロデ王だった。
『チョー面倒くさいねー、彼には何も罪に値するところがないじゃーん』
パリサイ派のおっちゃんたちは、とりあえず鞭うちか石投げの刑にでもしてくれれば、イエスの人気は落ちると思ってたんだよね。
『いえ、いえ、ヘロデ王さま、この男の周りには大勢の人が集まるんです。民衆が騒ぎ立てたら、もっと面倒くさいことになりますよ』
『へえ、そうなの? うーーん、じゃあさ、彼はガリラヤ人じゃん? まずは、ガリラヤ管轄のピラト知事に連れて行くのが筋じゃね?』
任期中はとにかく問題を起こしたくない知事、ポンティオ=ピラト。
この時は、よりによって、歴史的大事件を担当することになるとは思わなかっただろう。
パリサイ派のおっさんたちは、ガリラヤに戻って、ピラトに訴えた。
『ナザレのイエスって男が民衆を煽って反乱を起こそうとしているんですよー』
ピラトは、イエスを尋問した。
だが、それを有罪とする理由は見つからなかった。
パリサイ派のおっさんたちー『こいつはねー。自分をユダヤ人の王だと言ってるんっすよ!』
ピラト『お前はユダヤ人の王なのか』
イエス『あなたがそう言っている』
どう考えても、罪らしい罪がこの男には見当たらない。
そのとき、ピラトはいい考えを思いついた。
過越し祭りの時は、恩赦として罪人を一人釈放してもいいことになっていた。
イエスが捕らえられたとき、暴動のときに人殺しをしたバラバという男がいた。
ピラトはこの恩赦を利用してイエスを解放しようと考えたのだ。
どうせ、パリサイ派のおっちゃんたちの妬みの為に連れて来られたのだと、ピラトには分かっていたのだ
そして、祭司たちに聞いた。
『祭りのたびに、囚人の一人を釈放できるのだが、お前たちはどちらを釈放して欲しいか』
しかし、祭司長たちはバラバを釈放するようにと、民衆を煽動した。
『バラバを! バラバを!』
ピラトは民衆の声の大きさに、一歩あとずさりした。
この時はまだ、バラバを釈放すれば、イエスは鞭うちの刑で済むと思っていた。
『それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか』
群衆はまた叫んだ。
『十字架につけろ』
ピラトは言った。
『いったいどんな悪事を働いたというのか。』
群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。
そして、ピラトは自分の罪の穢れを清めたくて手を洗った。
その後、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
<『新約聖書』マルコによる福音書 第15章2-5、12-15>
「結果、イエスは十字架にかけられてしまう」
ゴルゴタの丘が遠くに見えていた。
生徒たちは思わず目を背けた。
だが、ダニエルは目を背けずに、疑問をぶつけた。
「それが、どうやってキリスト教になったんですか? イエスは生きているときに。何も書き残していないのに」
「イエスの弟子は12人、十二使徒だ。
イエスが捕らえられたときや、十字架にかけられたとき、
『僕はイエス様の弟子です。先生は何も悪くありません』なーんて、誰一人として助けた者はいなかった。ゼロだ、ゼロ。
むしろ、金で売ったユダ。
三回も『この人は知らない』と言ったペテロ。他もじっと隠れていた。
まあ、新約聖書も人間のしょーもない歴史を書いているってことだ。
イエスが亡くなって復活し、弟子たちはイエスの言ったこと、行ったことを伝導して歩いたんだ。それがキリスト教の始まりだ」
ルカは補足説明をした。
「いわゆる、イエス・キリストを中心とする人たちが、ユダヤ教の宗教改革を理解し、ユダヤ教から分離しました。そして、キリスト教を作っていくことになるのです」
****
VR映像が変わった。
イェルサレムの神殿が再び炎に包まれている映像だ。
生徒たちは息を呑んだ。
「なんだあれは!」
―「一方、残ったユダヤ教を信じる人たち、つまりユダヤ人もなかなか大変だった。
ローマに対して『独立させてくれ!』と何度も独立戦争をおこしたんだ。
だが、それがうまく行かない。
やがて、イェルサレムに作られたソロモン時代のヤハウェの神殿はローマによって破壊されてしまった」
画面の中央で、倒れた神殿の壁がゆっくり崩れる。
その一部……西の壁だけが残った。
―「これが、“嘆きの壁”。
『なんでこんなことになってしまったんだ、もう西の壁しかのこってないじゃないか』
神に捧げる場所を失っても、人々はこの壁の前で祈り続けた。
“奪われても、心の中に神殿を建てる”。それが“ユダヤ教”という生き方なんだ」
女生徒が、アバターの手を合わせて小さく囁いた。
「……お願い、もう壊さないで」
黒須は彼女の方を見た。
―「そうやって、祈ること。それが、彼らが生き残った理由だ。」
そして、VRでゆっくりと世界地図が広がった。
ローマ帝国、ヨーロッパ、アジア……各地に光の粒が飛んでいった。
“ユダヤ人が世界中に散らばっていく”
その様子が表示された。
生徒
「これが……ディアスポラ……?」
黒須は静かに言った。
―「そうだよ。それでもローマに対する抵抗をやめなかったユダヤ人たちは、やがてこのパレスチナの土地を追放され、世界中に散り散りになっていく。これをディアスポラという。
その結果、ユダヤ人たちは世界各地に逃れて、それぞれの場所で迫害・差別を受ける苦しい時代を迎えることになる」
ルカはつぶやいた。
「彼らはそれぞれの土地で迫害を受け、それでも生き延びた。どんなに追われても、“自分が誰であるか”を失わなかった。これがユダヤ教の強さなのかしら……」
突然、ルシファーが、壁の前に現れた。
背中の黒い翼を折りたたみ、指先で崩れた石を撫でていた。
「皮肉なもんだな。神に選ばれたはずの民が、いちばん多くの地で追われるとは。」
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VR画面がゆっくりと静かになった。
黒須は続けた。
―「イスラエルの歴史は、 栄光と失敗のくり返しだ。でも……失っても、散らされても……“消えなかった”」
ダニエルは質問した。
「……祈りがあったから……ですか?」
「それは君たちの課題だ。歴史を動かすのは……神でも天使でもないからね。“人間が歴史を動かしていくんだよ」
生徒たち。
「……黒須先生……」
「今日の授業、なんかすごい……」
「旧約がこんなに刺さるとは……」
VRが解除され、
教室に静かに光が戻った。
ユダヤの歴史が終わっても、誰もおしゃべりする者はいなかった。
ルシファーは小さな声で、黒須を褒めた。
「……悪くない授業だった。」
「珍しいな、お前が褒めるなんて」
「黙れ、堕天使」
「お前もだろ、堕天使ルシファー」
ルカは涙がこぼれるのをハンカチで抑えていた
「……黒須先生、なんか刺さった。今日のは、本当に……すごかった……」
「泣きすぎだろ、お前」
「……今日は、お願い。そっとしといて……」
「ああ、わかった」
そこへ、ウリエルが申し訳なさそうに、そーっと手をあげた。
「……えっと……僕、まだ女性職員に囲まれてるんですが……」
「あ、それは頑張れ」
「……晩年のソロモンにならないように気を付けて」
ウリエルは強く否定した。
「えっ!? ならないっすよ!!!」




