第93話「天蓋を折る」
薄い朝の色が瓦屋根に滲んでいた。街の遠くでは、まだ警笛が時々鳴っている。工房で短く準備を終えると、セインたちは無言で頷き合い、城塞へ向かった。
狙うのは上――城のてっぺんに広がる“天蓋陣”。昨夜から微かに光っては消えている巨大な紋様。援軍の転移にも、監視にも使われる要だ。ここを壊せば、敵は一気に手足を奪われる。
◇
鐘楼の陰は冷たい風が渦巻き、息が白く揺れた。鐘の内側に沿って古い梯子がある。錆びてはいるが、まだ登れる。
「落ちるなよ」
エルンが小声で言い、先に手をかける。木の桟は軋むが、影糸で要所を仮止めしながら進むと、崩れはしない。
途中の歯車室は、歯車が不規則に回り、油の匂いが鼻を刺した。梁は細く、足元が滑りやすい。ミリアが指先で薄い膜を張る。「落下防止、薄く張った。踏み外しても一瞬は持つよ」
「助かる」
セインは梁の上で体の重心を低く保ち、回る歯車の合間を抜けていく。エリシアは息を整え、歯車の音に同調するように一歩ずつ刻んだ。
歯車室を抜け、屋根裏の小さな扉を押し開ける。冷たい空気が頬を打ち、視界が開けた。氷の屋根が広がり、その先に丸い祭壇。そこに、薄い光の輪が三重に重なっている。
祭壇の周りには、黒い棒のような柱が三本、三角形を描いて突き立っていた。地面の下へ魔力を流し込む“導線柱”だ。その中心に、人が横たえられている。痩せた男。脈はあるが、目は空を泳ぐだけ。陣の“結線役”にされている。
見張りは少ない。仮面の監督官の部下らしい兵が二人、そして白衣の術者が一人。いずれも眠気をこらえている。
「先に確かめる」
セインが囁くと、ミリアは近くの兵を指さした。「首輪、昨日より深い刻印。……でも、手順通りなら一人は外せるはず」
温める――祈りで印を鈍らせる――物理でこじる。ミリアがそっと掌を添え、体温と光を首輪に通す。エルンが小さな工具を差し込み、カチ、と鳴らした。
輪が外れた。兵は一瞬きょとんとし、次の瞬間、膝をついて顔を覆った。
「……家族が……」
声は震え、涙が落ちる。セインは短くうなずき、顎で出口の方向を示した。
「今は逃げろ。騒ぐな。ここは俺たちがやる」
兵は黙って立ち上がり、影の中へ消えた。
「全部は無理でも、できるだけ」
ミリアが小さく言う。セインは返さず、祭壇を睨んだ。
◇
最初の一撃は速く、静かに。
エルンの影糸が白衣の足元を絡め、口を塞ぐ。エリシアは背後から柄で首筋を打ち、術の声を潰した。セインは同時にもう一人の兵を肩から落とし、眠らせる。
広場には、風の音だけが戻る。
「導線柱は三本。同時に抜かないと補正がかかるはずだ」
エルンが柱の根元を確かめ、顔を上げる。「結び目はここ。三つの中継を同時に“外す”準備がいる」
「私、結線役の生命維持と痛覚を止める。負担を減らす」
ミリアが男の胸元に手を置き、祈りを流した。男の震えが収まり、呼吸が深くなる。
「じゃあ合図は私の雷で」
エリシアが剣を持ち替え、刃先に細い火花を集める。「光ったら一斉に抜く」
「外周は俺が抑える」
セインは柱の間を歩き、視界の死角を潰した。
準備が整う。空は薄白く、風が一段と冷たい。遠くで鐘が一つ鳴った。こちらに気付いたのかどうかは、まだ分からない。
「いくよ」
ミリアの声が震えずに落ちる。
細い雷が刹那だけ走り、三人の手が同時に柱の根へ食い込む。エルンは影で中継を固定し、捻って抜く。セインは根元を半身で抱え、全身で引き抜いた。エリシアは刃の上から両手で押し倒す。
ごう、と空気が沈む音がした。陣の光が一瞬途切れ、次の瞬間、別の紋が薄く走った。自動補正だ。戻る。
「もう一押し!」
ミリアが祈りを陣全体に乗せ、式そのものを薄く“鈍らせる”。その刹那だけ、補正の歯車が噛まない。
三本が同時に抜けた。
天蓋の光が、ふっと消える。
屋根の縁で氷が割れ、小さな崩落が起こった。足元が揺れる。結線役の男が低くうめき、すぐに眠りの呼吸へ戻る。
「成功」
エルンが息を吐き、柱を転がした。「上は死んだ。転移も監視も、しばらく動かない」
「なら今のうちに降りる」
セインが言いかけた時、屋根の影がするりと動いた。
黄金の縁取りの仮面。昨夜、回廊の奥で目が合った影だ。黒い外套が風に揺れ、手には細い短剣。口は開かず、視線だけが冷たい。
監督官――そう呼ぶにふさわしい冷ややかさだった。
「時間はやらない、って顔ね」
エリシアが一歩前に出て剣を構える。監督官は答えず、手の符を一枚、指ではじいた。薄い札が空中で燃え、屋根一面に見えない網が走る。足元がぬるりと重くなった。
「床術、また来る」
ミリアが祈りで抵抗を流す。完全には消えないが、足は動く。それで十分だ。
監督官が滑るように間合いを詰め、短剣が流れる。刺すよりも、切り口を置いていくような軌跡。紙一重で外すたび、外套の裾が白く裂けた。
「速いな……」
エルンが横から影糸で手首を縫い留める。監督官は一拍だけ動きを鈍らせ、すぐに札で糸を焼き切った。札は短く光り、灰も残らない。
「符と刃、両方か」
セインは呼吸を整え、胸元のペンダントに触れる。深追いはできない。借りられる時間は短い。ここで使うなら“一撃だけ”。
監督官の視線が、ミリアの祈りに一瞬だけ動いた。隙は薄い。けれど、そこしかない。
「今」
セインは踏み込んだ。視界の縁が広がり、足裏が地を捉える。相手の刃が来る前に柄をたたき、肘で軌道を折る。肩の内側へ体を差し込み、短く体当たり。仮面が揺れる。エリシアの雷がその間に滑り込み、監督官の脇腹を焼いた。
仮面の奥で目が細くなる。痛みというより、計算を修正する目。
次の瞬間、足元の網が強く引いた。セインの動きが一瞬遅れ、胸の重さがどっと戻る。呼吸が焼け、膝が痺れる。
「セイン!」
ミリアの光が身体に回り、足元の重さが薄れる。エルンの影が監督官の踵を払う。エリシアが剣の腹で仮面をはじく。金の縁に傷が走った。
監督官は一歩だけ退き、屋根の縁へ引いた。仮面がわずかに傾く。諦めでも、撤退でもない。状況の計算が終わった合図。
薄い煙が足元に広がり、影がふっと薄くなる。風が一度だけ乱れ、姿は消えた。
「逃げた?」
「落ちただけには見えない。どこかに“逃がし道”がある」
エルンが息を吐いた。「ここに長居は危険だ」
セインはうなずき、結線役の男を抱えて屋根裏へ下ろした。導線柱は三本とも外し、陣は沈黙している。上空の薄い紋様も消えた。援軍の転移は、少なくとも今は不可能だ。
◇
鐘楼を降りる頃、城内の連絡は混乱していた。天蓋が落ち、合図が通らない。各所の笛がばらばらに鳴り、兵が右往左往している。
この隙に、レジスタンスは住民の退避を一気に進め始めた。赤い布の印をたどり、影から影へ人の列が動く。工房へ戻る道すがら、セインたちの横を幼い手、痩せた肩、大きな荷物を抱えた老人が通り過ぎる。皆、足は速いのに、声は低い。誰も立ち止まらない。
工房に着くと、バークレイが短く笑った。「上は消えたな。空の紋が見えない。こっちは救い出しを続ける。……ありがとう」
「まだ終わってない」
セインは肩の呼吸を落とし、机の端に手をついた。「天蓋は落とした。だが、地下が唸ってる」
工房の奥で、輪の解析にかかっていた若者が顔を上げる。「首輪の新型、分解に時間がかかります。でも、手がかりは掴めました。祈りで鈍らせるより、温度と衝撃の順序が大事みたいで……」
「続けてくれ。兵士側も救う方法は持っておきたい」
エリシアが窓の外を指した。遠くの城塞から、今度は地の底を擦るような低い鼓動が連なって聞こえる。「地下だね。補助炉が本気を出すつもりだ」
ミリアが札を握り締め、うなずく。「音が重い……長くは持たないかも」
エルンは短く笑い、指先に影を走らせた。「なら、今だろ。心臓を止める」
セインは剣の柄に触れ、全員を見た。疲れは濃い。だが目は死んでいない。外ではバークレイたちが布を振り、列を誘導し、罠を片づけている。天蓋を折ったことで生まれた“隙”は長くはない。
「次で終わらせる。地下の補助炉、止める」
短い言葉に、三人がうなずく。
その時、床板がわずかに震えた。遅れて、工房の壁に吊した道具がカタカタと鳴る。地下からくる鼓動が一段大きくなったのだ。呼吸に合わせるように、ゆっくり、重く。
バークレイが扉に手をかけ、外を見やって言う。「通りはまだ使える。城の南側に、炉へ降りる“影の階段”がある。昔、鉱夫が使った道だ。案内できる」
「頼む」
セインが頷く。
救った命と、まだ見えない命。背中に両方の重みを感じながら、セインは扉を押し開けた。冷たい風が頬を打つ。空はもう青く、眩しい。
崩れた屋根の上で、折られた導線柱の残骸が、まだかすかに熱を持っていた。外の空気に晒されて、それもやがて冷えるだろう。
だが、地下の鼓動は止まらない。低く、深く、街を揺らしている。
「行こう」
セインが言うと、三人の足が同時に動いた。バークレイが先頭に立ち、細い路地を抜ける。赤い布がまた風に揺れ、影の中へ人の列が消えていく。
天の蓋は外した。次は、地の心臓だ。
――つづく




