第92話「心臓を止めろ」
工房の夜が明けきる前、空はまだ群青のまま白んでいく。湯を胃に落とし、短く目を閉じてから、セインは立ち上がった。
「狙いは城塞中央塔の下階、“動力回廊”。あそこを止めれば、徴収の儀式も帳簿も、しばらくは動かない」
地図の上に、救い出した若者が震える指で印をつけた。彼はかつて城内の下働きで、食事運搬の時に回廊を見たことがあるという。
「南側の給気口から、細いシャフトが通じてます。狭いけど、人が這って入れる幅です。警備は薄いはず……」
エルンが頷く。「排水はもう警戒が入ってる。換気なら盲点だ」
「分担を決める」
セインは視線を走らせた。「俺とエリシアが先行して守りを崩す。エルンは中枢の制御輪を切る。ミリアは退路と救護、崩落防止の結界。バークレイたちは外周で陽動と回収だ」
「了解」
エリシアは鞘を軽く叩いた。「さっさと終わらせよう」
ミリアは金属札を四人の掌に押し付ける。「危なくなったら握って。合図の光で位置を合わせる」
バークレイは短く笑い、肩を回した。「外を揺らしてやる。お前らは、真ん中をへし折れ」
◇
城塞の外壁に沿って走る、夜露が靴底で鳴る。補給口は昨夜の騒ぎで警戒が増していたが、そのさらに上、氷と石の継ぎ目に、煙の抜ける黒い格子があった。
エルンが小刀の背でネジをあたり、影糸をひと筋差し込む。ぐっと緩む気配。「錆びてて助かる」
格子が外れて、冷たい空気が顔にふきつけた。中は落ち葉の詰まった縦穴。壁には風を分配するための細い横梁が渡っている。
「俺が先に行く。落ちるな」
セインは体を横向きにし、肩から滑り込んだ。指で梁を探り、靴先をかけ、呼吸を浅くして一段ずつ降りる。上から、エリシアの息と、ミリアの小さな祈りの声が続いた。
数十歩分降りた先に、横に伸びる金属のフタが現れた。隙間から薄く明かり。人の足音がかすかに響いている。
エルンが耳を当て、指で三つ数える。合図。セインがフタを少し押し上げ、片目だけのぞく。灰色の通路、壁の内側に回る木製の足場。向こうに、薄青い光を放つ巨大な軸が回っているのが見えた。
「ここが……動力回廊」
ミリアが息を呑む。回廊の中央には、回転する魔力軸。脈を打つように光が走り、壁の紋が律動している。軸の根元には歯車と輪。人の背丈ほどの円環が三つ重なっていて、外周には数字と印。これが“管理輪”だ。
巡回兵が二人、術者が一人。術者は短い呪文を唱えながら輪を見張っている。脇には、昨日見た首輪——数字の輪が箱に山積みだ。
セインは目で合図し、フタを静かに押し開いた。先行して足場へ体を滑らせ、壁の影に身を沿わせる。上にいた三人も、順に降り立った。
「三十息で、術者から落とす」
口の形だけで伝える。
一息、二息——
セインが影のように走り出した。術者が振り向くより速く懐に入り、柄で喉元を打つ。声が潰れ、体が折れる。エリシアの雷が細く走り、横の兵の握りを痺れさせた。剣が落ちる。もう一人は踏み込みで膝を蹴り折り、気絶させる。
静かになった回廊に、軸の唸りだけが残る。
「制御輪、ここだ」
エルンが円環の前に屈む。輪は三重。外輪は監視、中央で分配、内輪で増幅。切る順番を間違えると、暴走して吹き飛ぶ類だ。
「封魔、解錠、固定——この順番なら爆発は避けられるはず」
影糸が、輪の継ぎ目の刻みをなぞる。
セインは肩越しに回廊の入口を見張った。遠くで鐘が一つ鳴る。昨夜ほどではないが、警戒は上がっている。
「来る前に終わらせる」
エリシアは輪の根元にある固定ピンに刃先を当てた。雷を針の太さまで細く絞り、じり……と焼き切っていく。金属の焦げる匂いが薄く立った。
その時だ。回廊の入口に、二人の兵が現れた。ヘルムの縁に、小さな金属輪が光っている。数字の輪——ただし、昨夜のものより刻印が深く、黒ずんだ筋が走っている。
(輪の術式が変わってる)
ミリアが眉を寄せた。祈りが届きづらい感触。それでも彼女は手を合わせ、空気の拍を落として兵の足を鈍らせる。
セインが飛び込み、盾の縁を滑らせて“薄い面”を突いた。勢いを殺し、顎を打つ。兵は崩れるが、輪は首に張り付いたままだ。
「輪はあとで外す。今は前」
エリシアが言い、焼き切りを続ける。一本、二本——
回廊の奥から別の術者が駆け込んでくる。手に持つ札がぱっと開き、床に束縛の紋が走った。セインの足首に冷たい重さ。床が粘る。
「まずい……」
エリシアが一瞬足を取られ、膝が落ちる。術者が掌を向け——
セインは迷わなかった。自分の体を盾にするように前へ。胸に冷たい衝撃。息が詰まる。だが、エリシアの足元からは束縛の紋がほどけた。
ミリアの声がかぶさる。「ほどけて!」短い祈り。足元の紋が白く割れ、セインの足も自由を取り戻す。
「助かった」
「こっちこそ」
短い言葉の間に、エルンが叫んだ。「外輪、外した! 中央いく!」
中央の輪は、回転に同調して小さく上下している。影糸を差し込むには、ほんのわずかな隙を掴む必要があった。呼吸を合わせ、タイミングを読む。
「今——」
カチン、と小さな金属音。エルンの額に玉の汗。指が震える。
「最後、内輪。固定の針を打ち込めば、増幅が止まる」
「針、作る!」
エリシアが雷で焼いたピンを逆向きに叩き、先端を尖らせる。セインは正面の術者へ走り、刃の腹で札を弾き飛ばした。紙片が舞い、術がほどける。
回廊の奥の扉が開き、今度は鎧に刺繍のある指揮官が現れる。手には棍棒。左右に護衛が二人。足取りは重く、ためらいがない。
「時間切れだ」
セインは低く吐き、腰の奥の熱を引き出した。胸元のペンダントが、赤く短く鳴る。視界の縁がわずかに広がり、足元に力が集まる。刹那だけ、身体が軽くなる——借りる、というより、押し流してもらう感覚。
一歩。地が沈んだように、間合いが縮む。棍棒が振り下ろされる前に、セインの刃は柄へ滑り込み、てこのように跳ね上げた。指揮官の手がわずかに開く。そこへ肘を叩き込み、棍棒が転がる。護衛の喉元に柄頭。二人が同時に崩れた。
全身に重さが戻る。肺が焼けるように痛い。膝が笑いそうになるのを、歯を食いしばって止めた。
「今だ、打て!」
セインの声に、エルンが尖ったピンを内輪の継ぎ目へ叩き込む。ミリアの祈りがその衝撃を“柔らかく”包み、暴発の波を壁へ逃がす。
——回廊が、低く唸った。
回転の音が一段落ちる。光が脈打つのをやめ、じわじわと弱くなった。壁の紋が消え、塔のどこかで警鐘がひとつ、空振りしたみたいに鳴って止まる。
「止まった……!」
エリシアが肩で息をしながら笑う。エルンは尻もちをつき、額の汗をぬぐった。「ギリギリだな、毎回」
ミリアは両手を胸に当て、祈りの余韻で震える指を落ち着かせた。「暴走、収まった。大丈夫」
その瞬間、城の上方で別の音がした。低く、腹に響く振動。動力回廊のさらに奥、別系統の魔力が目を覚ます気配。
「補助炉……?」
エルンが顔をしかめる。「中枢は落としたが、全停止じゃない。別の炉で最低限を回すつもりだ」
「つまり、時間は買えた。なら、使うしかない」
セインは短く言い、壁の影に積まれた鉄箱へ目を向けた。番号輪がまだ山になっている。首元で見た“新型”の輪も混じっていた。
ミリアが一つ取り、掌に乗せる。祈りの光を薄く通す。輪の刻印が、祈りの光を嫌うように熱を帯びた。
「外せる輪と、外せない輪……。これは“外せない”側に寄ってる。術式が強い。だけど、根は同じ。壊せないわけじゃない」
「持てるだけ持とう」
エリシアが袋を引き寄せ、輪をかき集める。「工房に戻って解析する」
「撤退」
セインが言った。「外周が長く持つとは思えない。今のうちに出る」
四人が給気口へ戻ろうとした時、回廊の向こうの薄闇に、ひとつの影が立った。黄金の縁取りの仮面。黒い外套。細身の体に、金糸で奇妙な図形が縫い込まれている。
声は出さない。ただ、こちらを一度だけ見て、仮面の奥で目が笑ったように見えた。次の瞬間、影は回廊の角に溶けて消える。
「……誰だ?」
エルンが小さく吐く。
「考えるのは外だ。今は離れる」
セインは声を抑えた。
給気シャフトを上り、工房への道をたどる。外へ出ると、陽はまだ建物の端にひっかかっているだけだった。城塞の塔にともる赤黒い灯りは、さっきより数が減っている。町の方で、どこかの術が解けたのか、人のざわめきが波のように広がっていた。
◇
工房に戻ると、バークレイが迎えに出た。顔には疲れが、目には光が戻っている。
「やったのか」
「中枢は止めた。補助が動き始めてるが、今夜みたいな“流れ作業”はできないはずだ」
セインが簡潔に答えると、周囲にいた仲間たちが小さく歓声を上げた。抱き合う者、泣き笑いする者。救い出した若者たちも、信じられないという顔で頷き合っている。
だが、バークレイはすぐに顔を引き締めた。「外周で三人、戻らない。こっちも代償は出た。……だが、道は開いた」
ミリアが静かに祈り、椅子に座らされている負傷者の手を握った。エリシアは輪の入った袋を机に置き、短く言う。「これ、術式が強い。解体する。外せる方法が見つかれば、兵士も救える」
エルンが耳を澄ませた。「……聞こえるか。上の方で、何かを“暖めてる”音。大きい」
セインは窓の外を見た。城塞の天蓋に、薄い紋が浮かんでは消える。幾何学の輪が重なり、力をためている仕草。大規模な転移か、援軍の呼び込みか。どちらにせよ、長くは猶予をくれない。
「二つに一つだ」
セインは皆を見渡した。「補助炉を落として完全に止めるか、天蓋の陣を壊して“次”を封じるか」
工房の空気が固まる。どちらも重い選択だ。
バークレイが言った。「補助炉は地下。道は狭くて、守りは厚い。だが、落とせば今夜みたいな徴収は二度とできない」
エルンが続ける。「天蓋は高い。城の中心を抜ける必要がある。成功すれば援軍も転移も潰せるが、時間との勝負だ」
ミリアは札を握り、そっと目を閉じた。耳の奥で、まだ救いきれない声が鳴っている。
セインは迷いを喉で押しつぶし、言葉にする。
「次で決める。走るぞ」
短い言葉に、皆がうなずいた。
金属が打ち鳴らされる音が、城の上で高く響く。床下からは、補助炉の息のような低い唸り。二つの脈が、互いに競り合っている。
セインは剣の柄を握り直した。手のひらに汗がにじむ。胸のペンダントが、弱く一度だけ鳴いた。
「——行く」
工房の扉が開き、冷たい風が吹き込む。夜と朝の境目を裂いて、彼らは再び城へ向かった。次の一撃で、この街の心臓を止めるために。




