第89話「抗う者たち」
第89話「抗う者たち」
倉庫の中は、重たい泣き声と咳で満ちていた。
土と血の匂い、焦げた瓦礫の粉じんがまだ衣服に染みつき、誰もが疲れ果てて床に身を横たえている。
腕を失った男が壁にもたれ、母親は弱り切った赤子を抱きしめる。泣き声すら出せない子供の顔は、骨ばかりで皮膚に張りついていた。
セインは、何も言えずに立っていた。剣を抜いて戦ったはずなのに、救えなかった顔の方が、強く脳裏に残っていた。
「……これが、この国の現実か」
エルンが壁際で腕を組み、低く言った。
戦場をいくつも越えてきた男の顔に、今は苦味しか残っていない。
ミリアは膝をつき、祈りの光で人々の傷を癒していた。擦り傷、槍に抉られた傷、兵士に殴られて腫れ上がった顔。光はそれを包み、痛みを和らげていく。だが、彼女の両手は震えていた。
命を繋ぎ止めても、飢えと恐怖に削られた心までは癒せない。
彼女の目尻に、涙が滲んでいた。
「……助けてくれてありがとう」
掠れた声に振り向くと、痩せ細った少年が立っていた。
さっきまで兵士に連れ去られそうになっていた子だ。目の奥にかすかな光が戻っていた。
セインは小さく頷き、少年を母親の元へ押し戻した。
母親はただ涙を流しながら、子供の背を撫で続けていた。
◇
そのとき、倉庫の扉が軋みながら開いた。
背の高い青年が入ってくる。三十代前半ほど。整った輪郭に無精髭が残り、長い外套は戦いの跡で裂けていた。
だが、彼の瞳は濁っていなかった。眠れぬ夜を繰り返した人間だけが持つ鋭さを宿していた。
「……俺はバークレイ。この街で抗う者たちをまとめている」
彼は深く頭を下げた。
「子供たちを救ってくれたと聞いた。本当に感謝する。もしあの子らを失っていたら……俺たちにはもう戦う理由すら残らなかった」
セインたちは互いに目を見合わせ、小さく頷いた。
バークレイは手で合図を送り、奥の部屋へ案内した。
◇
奥の広間には、木の机がひとつ。そこに古びた地図が広げられ、赤い印がいくつも打たれていた。
街の路地、倉庫、広場。印のほとんどは、兵士に制圧された場所を示しているらしかった。
「見ての通りだ」
バークレイが指で地図を叩いた。
「王族や貴族は圧政を敷き、富を城塞に囲い込んでいる。外に残された者は餓え、病み、殺される。税を払えなければ臓器を売らされ、借金を返せない者は奴隷として売られる」
エリシアが拳を握る。
「そんなこと……人のやることじゃない」
「兵士たちも望んでやってるわけじゃない」
バークレイの声は低く、だがはっきりしていた。
「逆らえば、家族ごと処刑される。だから命令に従うしかない。さっきお前たちが見た兵士もそうだ。加害者であり、同時に被害者でもある」
ミリアが祈りの手を下ろし、唇を噛んだ。
「じゃあ……誰も自由じゃない」
「ああ」
バークレイはうなずいた。
「だから俺たちは立ち上がった。レジスタンスとして。だが武器も食料も足りない。仲間は日ごとに減っていく。正直、先細って消えていくだろう」
それでも、と彼は言葉を強める。
「抗わなければ、子供たちは生きて大人になることすらできない。俺は……それだけは許せなかった」
彼の拳が机を打ち、震えた。
恐れではない。怒りと決意からくる震えだった。
◇
報告が次々に持ち込まれる。
「補給線が断たれました!」
「仲間の一人が捕まりました!」
「……内部に密告者がいるかもしれません」
空気は重く沈んでいく。
人々の顔から血の気が引き、声も小さくなっていく。
それでもバークレイは言葉を切らさなかった。
「奇跡なんて望まない。だが、行動を止めれば俺たちは終わる。抗い続けることが、唯一の道なんだ」
彼の瞳は強く燃えていた。
◇
セインは拳を握りしめていた。
自分たちはこの国の民ではない。深入りすれば潰される。エルンはそう警告した。
だがミリアは涙を拭い、言った。
「でも……目の前で泣いてる子供を、見捨てられる?」
エリシアも剣の柄を握り直す。
「黙ってるぐらいなら、戦った方がいい」
セインは彼女たちの顔を見て、そして自分の胸に問い直した。
——なぜここまで旅をしてきたのか。
——なぜ剣を握り続けているのか。
答えは一つしかなかった。
「……俺たちの力を使うなら、人を守るために使いたい。それ以外に理由なんてない」
三人はうなずいた。
その瞬間、空気が変わった。
◇
バークレイが地図を指し示した。
「明日、城塞に向けて徴収馬車が出る。子供や若者を乗せてな。護送を叩けば、何人も解放できる」
「……宣戦布告になるな」
エルンが苦い声で言う。
「ああ」
バークレイの目は揺らがない。
「けど見逃せば、次に連れ去られるのはここにいる子供たちだ」
重たい沈黙が落ちた。
だがそれは恐怖ではなく、決意を形作るための沈黙だった。
そのとき、遠くで鐘の音が響いた。
街の警鐘だ。徴収の準備が始まった合図。
「……時間がない」
バークレイが剣を腰に差し込む。
「決めろ。戦うかどうかを」
セインは仲間を振り返った。
エリシアがうなずき、ミリアが祈りの手を組み、エルンが影糸を指先に揺らした。
もう迷いはなかった。
次に来る戦いは、彼らにとっても逃げられない「宣戦布告」になる。
◇
夜空に火花のような砲火が散り、街を赤く染めた。
それは始まりを告げる合図のように、倉庫の窓から差し込んでいた。
――つづく




