8話-夢-
夜が学園を包むと、昼の喧噪は嘘みたいに薄くなる。
回廊の灯が順に点き、風見鶏の金属音だけが空の高みから落ちてくる。
「ただいま……」
扉を押すと、木机には開きっぱなしの教本と、トーマの置き手紙。
丸い字は元気がいい。
『食堂で新作シチュー発見。先に偵察!』
「偵察って言い方、やめろ……」
剣帯とマントをフックに掛ける。乾いた汗の匂いが夕方の訓練場を呼び戻す。
ヴァルターの掌の重み、砂の跳ね、短い褒め言葉。胸の奥がじんわり温かい。
服越しに、とん――小さな衝撃。
胸元のペンダントだ。古いクリスタル片が鼓動に合わせて淡く点滅している。
「今日も、よく脈打つな」
窓外では浮遊橋の灯が、細い糸みたいに夜を縫っている。
明日は歴史学。カルバン先生が言った。「地図の話をしよう」と。
席に着き、ノートの余白に小さく書く。鍵は心、門は七。
封印区画の断章、七芒星、荊冠――点と点が線になりかけて、まだ結び切れない。
――ドン、と廊下を駆ける足音。ノックもなく扉が開いて、栗毛がにゅっと覗く。
「セイン! シチュー、優勝!」
「勝ち負けの土俵がわからない」
「味が攻めてる。牛と山の幸の二刀流! ほら、冷めないうちに」
鍋敷きごとボウルを掲げて突入してくるトーマ。湯気が立って、香りに腹が鳴る。
「……うま」
「だろ? 学院長にしごかれたって聞いたからよ。友情の一杯」
「値札は?」
「明日のレポートを写させてくれる権利」
「それは友情じゃない」
笑いながら木匙を進める。塩気と野菜の甘みが芯までほどける。
トーマが上着を椅子に掛け、ふと思い出したように言う。
「さっき、カルバン先生を回廊で見た。珍しく研究棟から出ててさ。白いチョークで“何か”を測ってた」
「測ってた?」
「床目の“拍”を数えてる感じ。『石は語る』って。やっぱ良い人だな。話が柔らかい」
「ああ。明日、地図の特講がある」
「聴講しようかな。あの先生の授業は――」
「お前は誰の授業でも寝るだろ」
「否めない!」
他愛ない会話で張っていた糸が緩む。食べ終えたトーマが立ち上がる。
「セイン。たまに“遠く”を見る目をするよな。窓の外じゃなく、もっと遠く。……何かあるなら、言えよ」
「大丈夫。話すときは話す。ありがとな」
「おう。歯みがけ。寝ろ。明日は寝るな」
「最後だけ難易度が高い」
手を振り合い、扉が閉じる。静けさが戻る。
ランプを絞り、ペンダントを机の端に置いて、ベッドへ。瞼の裏に――音が近づく。
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◆夢の回廊
風が鳴き、空が割れ、光の海が降る。
いつもの“入口”だ。そこに、別の音が混じる。三拍。
俺の胸と、遥かなどこかの心臓が、同じ譜面で刻む。
ダン、ダン、ダン。
『――調律者』
声は耳に触れず、骨へ沁みる。
白い廊下が伸び、角ごとに扉が増える。どの扉も、微かに違う音を奏でていた。
怒り、嫉妬、怠惰、強欲、色欲、暴食、傲慢――似ているのに同じではない七つの和音。
『光を汚せ。聖なるものを、堕とせ』
遠くの冷たい囁きが重なり、音が濁る。
俺は歩く。扉へ手を伸ばす。触れた瞬間、背で誰かが小さく息を呑む気配――
『世界は交響。壊れた旋律を、直さなくちゃ』
ミリアの声だ。振り返ろうとしたとき、床の目地が音符みたいに外れて落ちる。
とっさに扉の縁を掴む――指先に、冷たい手が触れた。
白い袖口。丸縁の影。優しい声の歴史学者が、何かを囁く。
『門は七。鍵は、心。三拍、待て』
ドン――
落下の衝撃と同時に、目が覚めた。
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◆夜の影
心臓が速い。石の明滅が追いかける。
渇いた喉に水を流し込み、窓辺に立つ。浮遊橋の灯はまだ点り、回廊の端、石柱の陰で白い袖が揺れた気がして――凝らす。
風がほどいて、ただの影に戻る。
「……気のせい、だよな」
自分に言い聞かせてベッドへ戻る。今度はすぐ眠りに落ちた。
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◆朝の譜面
朝は光の粒から始まる。
高窓の陽が床板の目地をなぞり、鳥の囀りが薄い雲をほどく。
鐘がひとつ。廊下が一斉に賑やかになる。
「起きろー! 寝坊助どもー!」
トーマの声が扉を叩く。顔を洗い、身支度。食堂へ。
湯気の向こうにパンとハーブスープ。白い外套が視界をかすめる。
「おはよう、セイン」
ミリアだ。琥珀の瞳が朝の光で少し明るい。
近づいた彼女が、俺の襟の乱れを指で直す。指先が喉元をかすめ、思わず姿勢が伸びる。
「……寝癖、一本だけ勝ってた」
「助かる」
「私は鐘の前に起きるの、好き。空が一番、透明だから」
「俺はベーコンの匂いが好き」とトーマ。
「知ってる」とミリアが微笑む。「君の足音は食べ物の前だけ早い」
三人でパンを割る。ミリアの視線はよく動く。人の行き来、窓の外、天井の梁――音を見る目。
「今日の歴史学、地図の特講だって」と言うと、彼女の睫毛がふるえる。
「地図は好き。道は音に似てる。導くから」
「導かれっぱなしは危ない」とトーマがスプーンを置く。「罠があったら?」
「その前に、足音が教えてくれる。乾いた石と湿った石、硬い土と緩い土――少しずつ、違う音」
ヴァルターの足音――重いのに軽い――が頭に浮かぶ。芯だけ置いて、他は流れる。
第二の鐘。食堂が慌ただしくなる。
「まずい、補講!」
「こぼすな」
「今こぼした!」
「拭け!」
笑いながら走る背を見送り、ミリアが口元へ手を添えて笑う。
食器を片づけ、回廊へ。白い石が朝を跳ね返し、行き交う学生の横顔を明るくする。
階段でミリアが小声。
「昨夜、少しだけ不協和音がした。学園のどこかで、誰かが“別の譜面”を鳴らしてた」
「別の譜面?」
「言葉にしにくいけど……音の縁に、棘があった」
荊冠の刻印が頭の裏で重なる。けれど俺は言う。
「大丈夫。何かあっても、ここには守る人がいる」
ミリアは小さく頷いた。
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◆地図の特講
歴史学の教室前は、いつもより人が多い。掲示板には「地図特講」。聴講の他科生もちらほら。
扉が開き、柔らかな声が流れる。
「おはよう。座ってください」
教壇にはカルバン先生。丸眼鏡の奥はいつも通り優しい。指には白いチョーク。
黒板の端には細い線で世界の輪郭。先生が小さな円を描き、上に斜めの短い線。軽く払うと粉が散る。
「道を引くとは、世界に線を引くことだ。線は人を導き、時に惑わす。――まず、線を見る目を作ろう」
机の下から取り出された筒。布が広がり、古い羊皮紙の地図が現れる。
淡茶の地に精緻な線。大陸、海、浮遊島。余白の古語の隅に、七つの印。
胸の石が、強く脈打つ。
ダン、ダン、ダン。
「これは《断裂》以前に描かれた“旅の手引き”だと言われています。……その前に、一つだけ質問を」
軽く笑い、先生は視線を巡らせた。俺の胸に一瞬だけ留まり、すぐに黒板へ戻る。
白い線が、王都アルカディアの北、小さな丘陵地帯をなぞる。黒板の線と羊皮紙の線が重なった刹那――
空気がひんやり澄んだ。
ペンダントが熱く、机の脚が三拍だけ震える。
ミリアの指先が、机の下でそっと俺の袖を摘む。
「“門は七”。そのうちの一つに、今日、触れる」
教室の外で、遅鈍い鐘が、一度だけ鳴る。
ヴァルターの声が頭のどこかで反響する。――迷ったら、三拍待て。
一拍、二拍、三拍。
カルバン先生の白いチョークが、地図の端に小さな印を打った。
――扉の音が、俺にだけ聞こえた。
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つづく
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