第79話「支配の悪魔アスタロト」
砕けた氷柱の残骸が、床に散らばっていた。
広間を覆っていた傀儡はすでに動きを止め、ただの氷の山と化している。
セインたちは肩で息をしながら、しばし立ち尽くした。
「……終わった、のか?」
エリシアが剣を杖のように突き立て、荒い呼吸の合間につぶやく。
ミリアは両手を組んだまま、崩れた氷片に祈りを捧げていた。
「核を砕いた……だから、傀儡は消えた。けれど」
その先を言う前に、エルンが苦笑した。
「けれど、って顔だな。どうせロクでもねぇんだろ」
彼の右腕にはまだ白い霜の痕が残っている。祈りで広がりは止められたが、完全には消えていない。
セインは視線を落とし、床に残った氷片を見つめた。氷の欠片には、黒い紋様がじわじわと広がっている。
「嫉妬じゃない……これは、強欲の印だ」
低く言ったそのとき、広間全体がびしりと軋んだ。
——笑い声が響いた。
男とも女ともつかない、不気味に伸びた声。
「小さな子供たちがよく頑張ったものだ……だが、遊びはここまでだ」
四人は一斉に構えた。
氷の奥の闇から、糸の束がずるりと這い出す。黒く濡れたような糸は壁や天井に絡みつき、やがて一つの形を形作った。
姿を現したのは、細身の女だった。
漆黒のドレスをまとい、背中からは何十本もの糸が伸びている。その顔は人のものに見えるが、瞳は虚ろで底なしの闇に沈んでいた。
「……アスタロト」
ミリアが震える声でその名を呼んだ。
女は艶やかな微笑を浮かべた。
「ご名答。私は支配の悪魔、アスタロト。お前たちが壊した核も、私の糸の一部に過ぎない。……この市はもう私の庭。逃げられはしない」
背後の闇がうごめき、再び人の影が現れた。
それは氷峡の市で見た、普通の住人たち。
漁師も、子どもも、老婆も。全員が黒い糸で操られ、虚ろな瞳でこちらへ歩いてくる。
「まさか……!」エリシアの声が震える。「人を、操って……!」
アスタロトは冷たい笑みを浮かべた。
「彼らは幸せよ。自分で選ぶ必要がない。命じられるまま動くのが一番楽なのだから」
「……ふざけるな!」セインが怒声を上げる。「人の意志を奪うなんて、それが幸せなわけあるか!」
だが返事の代わりに、糸が一斉にうなりを上げた。
操られた住人たちが、武器や農具を振りかざし襲いかかってくる。
「くそっ……来るぞ!」
セインは剣を構え、最前線に出た。
エリシアが隣に並び、雷を纏わせた刃を走らせる。糸を切り裂こうとするが、斬っても斬っても新たな糸が絡みつき、すぐに立ち上がってくる。
「効かない……!」
エリシアが歯を食いしばる。
エルンは後方からワイヤーを放った。鋭い音を立てて糸を引き裂き、一瞬だけ住人たちの動きを止める。
「セイン! 今のうちに!」
「わかってる!」
セインが前へ踏み込み、操られた男の腕を狙う。だが刃は寸前で止まった。相手はただの住人。斬れば命を奪ってしまう。
その迷いを、糸が逃さなかった。別の操り人形が背後から襲いかかる。
「セイン!」
ミリアの祈りの光が飛び、結界が衝撃をはじいた。だがその膜も薄くなっている。
「数が多すぎる……! でも、糸の根を断てば!」
アスタロトが笑う。
「無駄よ。糸は再生する。あなたたちが躊躇する限り、私は強くなる」
その声は甘く、心に絡みつく。エリシアの動きが一瞬鈍り、糸に絡め取られて宙に吊り上げられた。
「きゃっ!」
糸に揺らされるエリシアを見て、セインの胸が焼ける。
「やめろぉっ!」
怒声とともに刃を振るい、糸を断ち切る。エリシアが落下し、ミリアが抱きとめた。
「ありがとう……でも、このままじゃ……!」エリシアは悔しさをにじませる。
セインは荒い息を吐き、アスタロトをにらんだ。
「意志を奪うお前には、絶対に負けない!」
その宣言に応じるように、ペンダントが低く鳴る。
赤い光が広間を照らし、四人の影を長く伸ばした。
アスタロトは一瞬だけ目を細め、楽しげに笑った。
「いいわ……その意志、壊しがいがある」
糸が一斉に波となり、広間を覆い尽くす。
操られた人々が前へ押し寄せ、氷の床が震える。
セインたちは武器を握り直し、背中を合わせて立った。
敵は悪魔。だが、守るべきは人々の心と意志。
絶望の中で、戦いはさらに深く燃え上がっていった。
――つづく




