表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/388

75話「氷峡の市の朝」



 転移陣を踏んだ瞬間、白い光が視界を覆った。身体が分解され、無数の拍にばらけて流れるような感覚。息を詰めて数秒、次に目を開けたときには、冷気が肺を突いた。


「……寒っ!」

 エリシアが思わず身を抱き、吐いた息が白く散った。


 そこは巨大な峡谷の底だった。両側を覆う氷壁は城郭のように高く、夜明けの薄光を受けて蒼白く光っている。眼下には凍りついた河川が大蛇のように横たわり、橋代わりに削られた氷の道が対岸へ伸びていた。


 峡谷の中央に築かれたのが——氷峡の市。


 氷を切り出して組み上げられた建物は、透き通る硝子細工のように輝いている。屋根の縁に灯された魔導灯が氷に反射し、街全体が淡く煌めいていた。


「……幻想的」

 ミリアが呟く。祈り手の声は白く震え、まるで吐息も神聖な儀式の一部のように見えた。


「けど、気を抜くなよ」

 エルンが黒マントを翻し、周囲を観察する。氷壁の外縁には巡回兵の影が見え、魔術師の結界が薄く揺らめいている。活気ある市の入口にしては、あまりに物々しい。



 氷峡の市場は、早朝にもかかわらず人で賑わっていた。

 露店には凍った魚や氷苔、魔除けの彫像や毛皮が並び、荷馬車の鈴が絶え間なく鳴る。子供たちが氷の破片で作った駒を転がして遊んでいる一方、商人たちは声を張り上げて値を競った。


 だが街の表情には一つの影が差していた。

 巡回兵は市の通りごとに立ち、商人の荷を細かく検めている。住民の口元には笑みがあるが、どこか張りつめていた。


 セインはペンダントを押さえた。胸元の赤い石が微かに震えている。氷の光を浴び、三つの残穢——ヴァルター、イフリート、そしてグランディオス——が呼応しているようだった。


「……ここだな」


 低くつぶやいた瞬間、隣の老婆が振り返った。皺だらけの顔に怯えが走る。


「旅の方……お気をつけなされ。この街は……夜ごと誰かが消えている」


「消える?」

 エリシアが眉をひそめる。


「姿も声も、跡形もなく。ただ、黒い蝋が残されているんだよ」

 老婆は指を震わせ、十字を切るように胸の前で印を結んだ。


 黒い蝋。

 セインたちは顔を見合わせる。あの戦いの残穢と同じ気配。


「グランディオスの残り火か、それとも……別の幹部?」

 エルンが低く呟いた。



 宿をとったのは、氷をくり抜いた大きな館だった。廊下には氷柱の燭台が立ち、天井には雪結晶を模した飾りが下がっている。外の寒さとは対照的に、内部は魔導暖炉で温められていた。


 部屋に入ると、エルンが地図を広げた。

「市の地下に古代転移柱があるらしい。住民の失踪は、そこに繋がってると見るべきだな。明日の昼、巡回兵が交代する隙に潜り込む」


 エリシアは剣を壁に立てかけ、窓から氷壁を見上げた。

「……残穢が地下に流れ込んでる。あの時の匂いと同じだ」


 セインは頷き、ペンダントを握った。

 脈動は収まらない。氷の街に入った途端、三つの残穢が互いにぶつかり合うように疼いている。


「明日、必ず確かめる」


 ミリアは掌を胸に当て、祈るように言った。

「失踪者を放っておけない。それに……放っておけば、またあの人たちみたいに——」


 言葉が震え、そこで途切れた。セインは短く「大丈夫だ」と返した。



 夜。氷峡の市は灯りに包まれ、街全体が青白い光に沈んでいた。

 宿の窓から見下ろすと、氷壁を滑る光が星座のように瞬いている。


 セインは拳を握り、低く呟いた。

「ここでも、誰かが仕掛けてる。グランディオスの残穢だけじゃない。もっと大きな……」


 答えはない。だが胸の石が、低く重く脈打った。



 その夜、氷壁の頂に一つの影が立っていた。

 黒い外套を纏い、街を見下ろす細身のシルエット。月光に浮かぶ横顔は、人とも獣ともつかない。


「器はまたひとつ、満ちたか」

 影は氷風に髪をなびかせ、唇を歪めた。

「ならば——欲望ごと砕いてやろう」


 氷壁を這う黒い紋が、一瞬だけ走った。

 街はまだ眠りの中にあり、その気配に誰も気づかない。


つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ