75話「氷峡の市の朝」
転移陣を踏んだ瞬間、白い光が視界を覆った。身体が分解され、無数の拍にばらけて流れるような感覚。息を詰めて数秒、次に目を開けたときには、冷気が肺を突いた。
「……寒っ!」
エリシアが思わず身を抱き、吐いた息が白く散った。
そこは巨大な峡谷の底だった。両側を覆う氷壁は城郭のように高く、夜明けの薄光を受けて蒼白く光っている。眼下には凍りついた河川が大蛇のように横たわり、橋代わりに削られた氷の道が対岸へ伸びていた。
峡谷の中央に築かれたのが——氷峡の市。
氷を切り出して組み上げられた建物は、透き通る硝子細工のように輝いている。屋根の縁に灯された魔導灯が氷に反射し、街全体が淡く煌めいていた。
「……幻想的」
ミリアが呟く。祈り手の声は白く震え、まるで吐息も神聖な儀式の一部のように見えた。
「けど、気を抜くなよ」
エルンが黒マントを翻し、周囲を観察する。氷壁の外縁には巡回兵の影が見え、魔術師の結界が薄く揺らめいている。活気ある市の入口にしては、あまりに物々しい。
氷峡の市場は、早朝にもかかわらず人で賑わっていた。
露店には凍った魚や氷苔、魔除けの彫像や毛皮が並び、荷馬車の鈴が絶え間なく鳴る。子供たちが氷の破片で作った駒を転がして遊んでいる一方、商人たちは声を張り上げて値を競った。
だが街の表情には一つの影が差していた。
巡回兵は市の通りごとに立ち、商人の荷を細かく検めている。住民の口元には笑みがあるが、どこか張りつめていた。
セインはペンダントを押さえた。胸元の赤い石が微かに震えている。氷の光を浴び、三つの残穢——ヴァルター、イフリート、そしてグランディオス——が呼応しているようだった。
「……ここだな」
低くつぶやいた瞬間、隣の老婆が振り返った。皺だらけの顔に怯えが走る。
「旅の方……お気をつけなされ。この街は……夜ごと誰かが消えている」
「消える?」
エリシアが眉をひそめる。
「姿も声も、跡形もなく。ただ、黒い蝋が残されているんだよ」
老婆は指を震わせ、十字を切るように胸の前で印を結んだ。
黒い蝋。
セインたちは顔を見合わせる。あの戦いの残穢と同じ気配。
「グランディオスの残り火か、それとも……別の幹部?」
エルンが低く呟いた。
宿をとったのは、氷をくり抜いた大きな館だった。廊下には氷柱の燭台が立ち、天井には雪結晶を模した飾りが下がっている。外の寒さとは対照的に、内部は魔導暖炉で温められていた。
部屋に入ると、エルンが地図を広げた。
「市の地下に古代転移柱があるらしい。住民の失踪は、そこに繋がってると見るべきだな。明日の昼、巡回兵が交代する隙に潜り込む」
エリシアは剣を壁に立てかけ、窓から氷壁を見上げた。
「……残穢が地下に流れ込んでる。あの時の匂いと同じだ」
セインは頷き、ペンダントを握った。
脈動は収まらない。氷の街に入った途端、三つの残穢が互いにぶつかり合うように疼いている。
「明日、必ず確かめる」
ミリアは掌を胸に当て、祈るように言った。
「失踪者を放っておけない。それに……放っておけば、またあの人たちみたいに——」
言葉が震え、そこで途切れた。セインは短く「大丈夫だ」と返した。
夜。氷峡の市は灯りに包まれ、街全体が青白い光に沈んでいた。
宿の窓から見下ろすと、氷壁を滑る光が星座のように瞬いている。
セインは拳を握り、低く呟いた。
「ここでも、誰かが仕掛けてる。グランディオスの残穢だけじゃない。もっと大きな……」
答えはない。だが胸の石が、低く重く脈打った。
その夜、氷壁の頂に一つの影が立っていた。
黒い外套を纏い、街を見下ろす細身のシルエット。月光に浮かぶ横顔は、人とも獣ともつかない。
「器はまたひとつ、満ちたか」
影は氷風に髪をなびかせ、唇を歪めた。
「ならば——欲望ごと砕いてやろう」
氷壁を這う黒い紋が、一瞬だけ走った。
街はまだ眠りの中にあり、その気配に誰も気づかない。
つづく




