74話「残穢の器」
戦いが終わったあとの沈黙は、耳鳴りに似ていた。
工房は半壊し、瓦礫の隙間から夜風が吹き抜ける。焦げた煙と鉄の血臭が残り、月光が崩れた天井から斜めに差し込んでいた。
融合体は消えた。だが勝利の実感はなかった。
「セイン!」
エリシアが駆け寄る。
床に膝をついたセインは、汗に濡れた前髪を垂らし、肩で息をしていた。先ほどまでの異常な剣速と力は跡形もなく消え、ただ虚脱した青年の姿がそこにある。
「……大丈夫だ」
セインはかすれた声で言ったが、身体は小刻みに震えていた。
ミリアが祈りを込めて掌を背に添える。脈は速く、乱れている。限界を超えて身体を酷使した証だった。
「さっきのお前……別人みたいだった」
エルンが低く言った。
「剣も動きも、俺の知ってるセインじゃなかった。まるで……誰かが重なってた」
セインは答えず、荒い呼吸を整えようとした。胸の奥では確かに別の鼓動が鳴っていた気がする。あの一瞬、自分は自分でなかった。
そのとき——声が空間に満ちた。
姿はない。ただ、石壁に反響するような澄んだ響き。
「それは“ヴァルター”の残穢だ」
三人が顔を上げる。声の主は見えない。だが誰のものか、セインにはすぐに分かった。ヘルメスだ。
「闘神は最期に己の響きを君へ託した。だが、それは完全な継承ではない。君の中に宿るのは残穢の一端……借り物だ。必要な時、力を借りられるだろう。しかし代償は大きい。君の器はまだ小さいからな」
セインは拳を握った。全身が軋むように痛む。ほんの数秒だけ得た“闘神の拍”は、命を削るほどの重みを持っていた。
「切り札……だけど、命を削る」
エリシアが苦々しくつぶやいた。
声はそれを肯定した。
「選ぶのは君だ。振るうたびに己を蝕む。覚悟があるのならば——」
そこまで言った時だった。
瓦礫の下から、不気味な脈動が響いた。
「……まだ終わってねぇのか?」
エルンが影糸を構える。しかし掴めない。
黒金の泥のような残滓が、床下で蠢いていた。討たれたはずの強欲の幹部——グランディオス。その因子がなお息づき、形を求めていた。
「奪え……」
「求めろ……」
「悦びを……」
囁きが頭の奥に直接流れ込む。セインはこめかみを押さえ、剣が勝手に震える。
「やめろ……!」
その瞬間、胸のペンダントが赤黒く光った。
低い拍動とともに、残滓を引き寄せる。
黒金の霧は光に吸われ、呻き声を上げながら石に収束していった。
最後の一滴が吸い込まれた瞬間、ペンダントの表面に黒い紋が浮かんだ。
「……グランディオスの残穢か」
声が静かに告げた。
「おまえの器はまた一つ、因子を抱えた」
沈黙。仲間の視線がセインへ注がれる。
「そんな……また抱え込むつもり?」エリシアの声は震えていた。
「でも……吸わなければ、もっと広がっていた」ミリアが反論する。
「セインが止めたから……街は守られた」
エルンは唇を噛んだ。「いずれ、その石が敵になるかもしれねえ。だが今は……お前が持つしかないんだろうな」
セインは答えず、ペンダントを強く握った。
そこには——三つの響きが宿っている。
ヴァルターの残穢。
イフリートの残穢。
そして今、グランディオスの残穢。
鍵はただの器ではなく、残穢を抱える“集積の石”へと変わりつつあった。
崩れた天井から淡い光が差し込む。
ペンダントが再び脈動した。今度は赤い律動。
「……呼んでる」
エリシアが小さく息を呑む。
セインの胸に浮かんだ映像は、氷と霧に閉ざされた街並みだった。
塔のように聳える氷壁、夜明けの靄。
「次は……氷峡の市だ」
「また……休む暇もなく、か」
エルンが苦笑する。
「進むしかない」
セインは立ち上がり、赤い光を睨んだ。
遠い虚界。
七つの椅子を囲む円卓で、影の一つが低く笑った。
「英雄王の血脈がまたやったか……ならば次は——氷峡」
指が卓を叩く音が、狩りの合図のように響いた。




