72話「第四相 ― 欲の奔流 ―」
工房の床が割れた。
そこから立ち上るのは、光とも闇ともつかない奔流。黄金と薔薇色の紋様が絡み合い、血管のように壁や天井へと伸びていく。瞬く間に部屋全体を覆い尽くし、外の都市へと脈動を送り込んだ。
耳を澄ませば、街のざわめきが異様に変わっている。笑い声、泣き声、嗤い声、呻き声……欲望が暴走した人々の声が渦を巻き、魔法陣に吸い込まれてくる。鐘楼の鐘が狂ったように鳴り、誰かの悲鳴が掻き消された。
「……第四相に入った」
セインは赤いペンダントを握りしめ、吐き出すように言った。胸の奥にざらついた圧が溜まり、呼吸すら重くなる。
目の前で、融合体が立ち上がる。
強欲の鎧と色欲の肢体が完全に溶け合い、ひとつの怪物として定着していた。右半身は黄金の鎧に包まれた巨漢、左半身は透ける黒布を纏った艶めく女体。だがその境界は曖昧で、見る角度によって輪郭がずるりと滑り、男にも女にも見えなくなる。
声も、もはや二重ではなかった。
荒々しい男の唸りと、甘美な女の囁きが完全に溶け合い、低く、粘るような一声として響く。
「奪い……悦ばせ……喰らい尽くす」
工房全体がその声で軋んだ。
⸻
融合体が指を鳴らすと、床の魔法陣が反応し、セインの斬撃が宙に浮かび上がる。数秒前に放ったはずの斬撃。それが記録されたかのように現れ、二倍、三倍の勢いを得て返ってきた。
「なっ……!」
セインは裏拍に滑り込んで受け流したが、返ってきた衝撃は想像以上で、腕が痺れる。
「俺たちの力は、すべて奪い、増幅される……!」
エルンが歯を食いしばり、ワイヤーを床に撃ち込む。影糸が展開し、衝撃を受け流す。
その瞬間、甘い吐息が背筋をなぞった。
色欲の力。
見えない手が頬を撫で、耳を甘噛みするような錯覚が全身を這った。
「……っ!」
エリシアの剣が手の中で滑る。感覚が狂い、柄を握る指が熱に溶けそうになる。
隣ではミリアが祈りの拍を乱され、声が震えた。「ひ……う、声が……出ない……!」
融合体の笑いが響く。
「快楽と鈍痛は表裏……お前たちの身体は、もう俺のもの」
⸻
「……やらせるかよ!」
セインが吠え、エルンとともに前へ出る。
エルンは床と壁にワイヤーを十字に走らせ、融合体の動きを縫い留めようとした。だが鎧の巨腕がひと振りすると、ワイヤーは引き千切られ、逆に鞭のように跳ね返ってくる。
「ちっ……!」
咄嗟に影糸で絡め直し、被害を最小限に抑える。それでも手のひらが裂け、血が滴った。
セインはその隙に踏み込む。裏拍から滑り、二拍を重ねる新しい剣技を試みる。
刃先が融合体の胴を捉え、確かに手応えがあった——だが次の瞬間、斬撃が吸い込まれ、逆方向から倍の速度で返ってきた。
「ぐっ……!」
肩口に衝撃が走り、セインは床に膝をついた。
⸻
背後では、エリシアとミリアが立て直そうとしていた。
エリシアは燃え立つ回路を必死に束ね、震える手を押さえ込む。
「私は……惑わされない……! この剣は、私の意志で振るう!」
雷を剣に走らせ、一閃。工房の壁を裂き、破片を雨のように降らせる。
ミリアも深く息を吸い、祈りを再開した。
「惑わされても……祈れば、拍は戻る……!」
七元素の薄膜が仲間を包み、辛うじて押し寄せる幻覚の圧を和らげた。
二人の声に、セインは立ち上がる。
「……ありがとう。まだ折れねえ」
⸻
融合体が、ゆっくりと両手を掲げた。
床の魔法陣が震え、工房の中心に黒金の光が凝縮される。
槍だった。
黒金の槍は工房を突き抜け、天井をも貫こうとするほどの巨大さを持つ。そこから放たれる圧は、都市そのものを貫く力を示していた。
「都市ごと……貫く気か……!」
エルンが顔を歪め、ワイヤーを全方向に展開した。
ミリアは祈りを三重に重ね、光膜を厚くした。
エリシアは剣を握り直し、雷を纏って足を開いた。
セインは呼吸を整え、ペンダントを胸に押し当てた。
月光が、崩れた天井から差し込んだ。
白銀の光と黒金の槍が交錯する。
融合体が咆哮した。
「これで終わりだ……欲の槍で、お前たちも、街も、すべて貫く!」
黒金の槍が振り下ろされる——。
四人が同時に構え直した瞬間、眩い閃光が工房を埋め尽くした。




