71話「崩壊の工房、揺らぐ意識」
工房全体が呻いていた。
床に描かれた禁忌の魔法陣が第三相へと進み、黄金と薔薇色の線がさらに広がり、壁や天井を這い、都市の地下にまで伸びてゆく。石造りの柱が不気味な輝きを宿し、硝子管に残っていた魔液や破片が吸い寄せられて宙に舞った。青白い光と赤黒い光が混ざり、空間そのものが歪み、呼吸をするだけで肺の奥が焼けるようだった。
外からかすかに響く悲鳴があった。工房の上、街の住民たちの声。笑い声にも似た嬌声と、苦しみの呻きとが交じり合い、吸い取られるように工房の魔法陣へと落ちてくる。
——街ごと、飲み込む気か。
セインは赤いペンダントを握りしめ、奥歯を噛んだ。
融合体が立ち上がる。
巨漢の筋肉に黄金の鎧、だが片側には透ける黒布が絡みつき、妖艶な女性の体つきが張り付くように蠢いていた。顔はグランディオスの荒々しい輪郭を基盤としながら、片側の白い肌と紅い唇はセレーネのもの。二重に響く声が工房を満たす。
「奪う……惑わす……全ては、俺たちのものだ」
低く唸る獣の声と、甘美な女の囁きが重なり、聞くだけで意識が溶けそうになる。
ミリアは祈りの拍を立て直そうとするが、掌が震え、声が喉に絡まった。
エリシアは剣を構えながら歯を食いしばる。「こんなの……望んでないのに!」
エルンはワイヤーを腰から引き抜き、影糸を床に打ち込んだ。だがその眼は一瞬だけ、亡き兄の幻影を思い出して揺れた。
融合体が両腕を広げた瞬間、工房の光景が裂け、幻と現実が交わる。硝子管の残骸が舞台の幕のように垂れ下がり、奥から影が歩み出る。
その影は、ヴァルターだった。
かつての学院長、闘神。血に濡れた胸を押さえ、白い髭を乱した姿。
セインの足が止まる。
「……ヴァルター先生」
幻影は微笑したように見えたが、その口から出たのは冷酷な言葉だった。
「守れなかったな。お前はいつも、大事なものを失ってから泣く」
胸が抉られる。あの日の光景が蘇り、血の匂いが鼻腔に満ちる。セインの手が震え、刃先が揺らぐ。
「違う……今度は違う!」
心臓が跳ねる。赤いペンダントが低く鳴き、彼の呼吸が一瞬リズムを変えた。
——裏拍で入れ。
セインは刃を振るう。幻影が応じ、同じ剣筋を重ねる。しかし次の瞬間、彼は一歩早くずらし、裏拍で踏み込む。幻影は間に合わず、斜めに裂かれ霧散した。
「……乗り越える!」
次に立ちはだかったのは、トーマだった。
盾を構え、傷だらけの身体で笑っている。
「エリシア。……生きろ。幸せに」
あの日の最後の言葉。その声に、エリシアの膝が揺れる。胸が詰まり、涙が視界を滲ませた。
「トーマ……」
幻影の笑顔は、しかし少しずつ歪んでいく。瞳が濁り、口元が裂け、「ずっと縛ってやる」という声に変わった。
「違う……あなたはそんなこと言わない!」
エリシアは泣きながらも叫び、剣を振るった。剣筋は震えていたが、炎と風と雷が回路を走り、幻影を一閃で吹き飛ばした。
「あなたは……最後まで前を向いてた!だから私は進む!」
ミリアの周囲に、淡い光が広がった。
そこに現れたのはセインだった。
彼は優しい目で彼女を抱きしめ、「君が欲しい」と囁いた。
ミリアの心臓が跳ねる。頬が赤く染まり、祈りの拍が崩れかける。
「セ、セイン……?」
幻影はさらに甘く微笑む。「一緒に堕ちよう。君が欲しい」
ミリアの指先が震え、祈りが乱れる。
しかし次の瞬間、彼女の瞳が揺れ、涙を浮かべながらも声を張った。
「これは……セインじゃない!これは、私の欲を利用した幻!」
両掌を合わせ、祈りを爆ぜさせた。七元素の灯が幻影を砕き、温かな光が彼女の胸に戻る。
エルンの背後から、レブが現れた。
兄は片腕を失った姿のまま、冷たい瞳で囁く。
「お前も欲に溺れるのか。結局は、俺と同じだ」
心臓を掴まれたように痛む。拳が震え、呼吸が荒くなる。
だがエルンは歯を食いしばり、血を滲ませながら叫んだ。
「違う……!あんたが言っただろ、“怒りの輪を繋ぐな”って!俺は裏切らねえ!」
ワイヤーを地面に突き刺し、力強く自分を繋ぎ止めた。幻影のレブは苦笑を浮かべて消えた。
四人の幻影を退けた刹那、セインは踏み込んだ。
刃先をわずかに寝かせ、裏拍で融合体の肩を突き裂いた。
鎧が砕け、血が散る。
その瞬間、二重の声が揺らぎ、セレーネの声が漏れた。
「……たすけて……いや……いやぁ……」
痛みに歪んだ女の声。グランディオスの荒い笑い声がすぐにかき消した。
「甘いな!お前らごときが救えると思うな!」
融合体が怒りを爆ぜさせ、魔法陣が第四相へと進む。
工房の天井が裂け、崩れ落ちる。月光が射し込み、白い光が四人を照らした。
崩壊する工房、溢れる欲の奔流。その中で、四人は立ち上がり、武器と祈りを構え直す。
セインの瞳が赤い光を宿し、エリシアの刃が風を纏い、ミリアの祈りが震えを越えて重なり、エルンのワイヤーが影を切り裂いた。
融合体は咆哮した。
「次は全力だ……欲のすべてを喰らわせてやる!」
月光と血光が交錯し、戦場はさらなる地獄へと変わっていく。
——つづく。




