70話「強制融合 ―欲と色の牢獄―」
床に走っていた黄金の線が、耳鳴りみたいな高音をたてて“噛み合った”。工房の石床いっぱいに張りついた魔法陣が一段、明るさを増す。試験槽の硝子は内側から融け、機械仕掛けの管は糸みたいにほどけ、すべてが光の円へ吸いこまれていく。
「やめろ、グランディオス!」
黒絹の裾を翻し、セレーネが後退る。濡れたような睫毛の先に、ふだんの余裕はない。艶のある声が掠れた。
「私は“惑わせる”。奪われる側じゃない……!」
奥で錨のように踏ん張っていた巨躯が、籠手を床へ“ガン”と落とした。強欲派の司教、グランディオス。黄金の刻印が籠手の亀裂で点滅し、工房全体の魔法陣と共鳴する。
「強欲は与えぬ。奪い、縫い替える。お前の魔も、器も、名すらもだ」
同時に、四人が動いた。
セインは刃の“薄い面”で外縁の結び目を断とうと走り、エルンは指の間で火花を散らす妨害糸を投げる。エリシアは第二階位の断ちを重ね、ミリアは祈りで陣の拍を“ずらす”膜を敷いた。
——切れない。
円は斬撃を“受け取る”たび、輪郭を太らせて返してくる。奪い、混ぜ、増やす。強欲の術式は、壊そうとする手を栄養に変えていく。
「拍が吸われてる……!」
ミリアが顔を上げる。陣の中心で、拍が反転し続けている。祈りのテンポを合わせると、合わせたぶんだけ“向こう側”へ持っていかれてしまう。
「退け!」
セインは足を止め、エルンの肩を引いた。最短で落ちる角度に戻し、エリシアとミリアを背へ入れる。赤いペンダントが胸で低く鳴り、熱と冷の層が刃先に薄く載った。
中心に、二つの光柱が立ち上がる。黄金——グランディオス。薔薇色——セレーネ。柱が寄り合い、縁の糸が幾筋も絡み合う。契約の文字が反転し、名の破片が縫い直される。
「いや……いやよ、やめて!」
セレーネの足首に金の輪が絡み、黒絹が裂ける。素肌を晒す露悪ではない。力の“縫い目”が強制的に露出していく生々しさだ。
「私の欲は私だけのもの。わかるでしょう? この世界で一番、甘くて残酷なのは自由意思なの!」
「自由?」
グランディオスの笑いは低い。
「いいや、欲は鎖だ。鎖は集めて束にする。束は冠になる。俺のための」
籠手が床を叩く。
——工房全体が“縫い台”になった。
黄金に薔薇の縁取りが混じり、渦の中心で二つの人影が重なり始める。肉と魔が重なる音はしない。代わりに、拍が一つ、また一つと重ねられる。心拍と呪文拍、歌拍と契約拍——すべてが“強欲の拍”に揃えられていく。
「切る!」
エリシアが踏み込む。剣=回路。風で間合い、雷で痺れ、火で圧し、氷で縫う。回路の筋を束ね、渦の縁へ針のように刺す——が、縁そのものが“欲”にすげ替わっている。刺せば刺すほど、欲の回路が彼女の魔を絡め取る。
「通さない!」
ミリアが歌わない祈りで介在面をつくり、エリシアの回路に“逃げ道”を開ける。風・水・光の三膜が薄く重なり、奪取の指を滑らせた。
「セイン、いま!」
セインは刃を寝かせ、縁の“拍ずれ”へ薄い斬りを差し込む。ヴァルターの冷とイフリートの熱を一拍で切り替え、面の強度を落とす刺し。
——刺さる。
しかし、その刺しごと飲まれ、黄金の陣はさらに太る。奪い、返し、太る。
「ちっ」
エルンは舌打ちし、別のアプローチへ切り替えた。石床の継ぎ目に毒針を打ち、鎮静の蒸気をわずかに上げる。気化した薬が渦の境界でたゆたい、糸の結び目を鈍らせ——たが、黄金の息はすぐに“配合”を学習し、蒸気を栄養化して飲み干した。
「奪って、混ぜて、増やす……」
ミリアが震えを押し込み、目だけを鋭くした。「強欲の根っこ、これだ。だったら——」
言い終える前に、工房の空気が“落ちた”。
渦が閉じる。光が収束する。色が、形になる。
そこに“一つ”が立った。
上身は金属の山脈。黄金の胸甲が呼吸に合わせてわずかに脈打ち、鎖帷子の隙間から黒い肌理が覗く。肩は角のように張り、腕は籠手ごと“捕食器”みたいな関節を見せる。
腰から下は、黒絹と薔薇の蔓がうねる布の瀑布だった。布は足の形をわざと隠す。歩むたび、布の陰影が誰の視線も“下へ”引きずる。
顔は——片側がグランディオスの強面、もう片側がセレーネの白い輪郭。対になる瞳が重なって、声音が二重に響く。
「奪う。」
「惑わす——」
二つの声が一つに重なった。「——全部だ。」
エリシアの指先が冷え、すぐに熱くなる。「最低」
剣が鳴る。髪紐が小さく跳ねる。
ミリアは短く息を呑み、祈りの姿勢に入る。震えは、もう無い。「彼女は敵。でも、これは……救わなきゃ、いけない」
「躊躇うな」
エルンが低く言い、ワイヤーを指にかけた。「殺すんじゃない。止める」
「行く」
セインは赤いペンダントを握り、刃を起こす。胸骨の奥で拍が合う。
融合体が、首を傾げた。
「見届けに来た神々はどこだ? 鍵は持っているのに、扉の外で震えているだけか」
「黙れ」
セインが踏み出す。薄い面への刺し——“返ってくる”。刃が境界を越えた瞬間、境界のほうがセインの刃筋を“模倣”し、同じ角度・同じ強度の斬りを撃ち返してきた。反射ではない。奪取模倣だ。
「返しが来る!」
ミリアが叫ぶのと、エリシアが身体をひねって追撃を“空に捨てる”のは同時だった。髪が頬を打つ。頸筋を冷や汗が伝う。
融合体は、ひどく楽しそうだった。
「上手。——でも遅い」
薔薇色の唇が笑うと、空気が甘く湿った。香りが“記憶”に触れる。愉楽も、痛みも、抱擁も、拒絶も。あらゆる体験が薄膜になって視界の端に降りてくる。色欲の幻が、戦場を“柔らかく”する。
「来るよ、エリシア!」
ミリアが即座に祈りを重ねた。闇の薄幕で幻の輪郭を落とし、光で仲間の瞳孔を守り、風で香りの粒を押し返す。
——それでも、少し刺さる。
幻は“完全”ではない。だが、十分に邪魔だった。
エルンは壁と柱の“死角を連結”して、影の回廊をつくる。ワイヤーが一本、二本と閃き、融合体の踝と籠手の継ぎ目に“噛む”。
手応え——ある。
「引く!」
引いた瞬間、逆に“奪われた”。力の流れそのものが、向こうの筋に組み替えられ、エルンの肩へ鋭い痛みとなって戻る。
「っ……クソ、流体のように奪うタイプか」
セインは角度を変え、刃を“冷”に寄せる。刺しではなく“剥がし”。面の接着を剥離させ、返しの軌道を痩せさせる。
返しは——細くなった。
エリシアがそこへ雷の“遅らせ”を差し込み、剣で弾く。
二人の動きが半拍だけ重なり、融合体の頬に赤い筋が——つかない。近づく手前で“見なれた顔の笑み”が挟まって、迷わせた。幻。ほんの瞬き一つぶんのズレで、刃は空を切った。
ミリアの喉の奥で、祈りが低く回る。
「惑わせるの、やめて。……あなた、そんなに弱くないのに」
届くはずのない言葉が、ただの祈りとして空気に溶ける。
融合体はひとつ呼吸を深くして、指を鳴らした。
床の魔法陣に“第二相”が立ち上がる。外輪の外に、さらに細い円がいくつも同心に広がり、契約文字が蜂の巣みたいに光る。
「始めよう。奪い、惑わし、飽くまで満たす儀式を。——お前たちの拍も、心も、全部な」
「下がれ!」
セインが叫ぶ。工房の支柱が軋み、天井から砂のような粉石が降る。外の空気が重く低く鳴り、内圧が変わった。円環の射程が広がる。
エリシアは前へ半歩。剣の柄に汗がにじむ。
(惑わせても、切れば終わる)
自分に言い聞かせ、回路を短く・速く組み替える。風は爪先、雷は肘、火は背骨、氷は足裏。瞬間纏装を四点だけに絞り、“欲の粘り”に絡め取られない動きに。
エルンは毒を変えた。鎮静ではなく、縫合阻害。“つながろうとする”ものをほんの少しだけ遅らせる霧。
「ミリア、薄く全域に。視野じゃなく、鼻腔狙いだ」
「うん」
ミリアは頷き、祈りを空気に編みこんだ。彼女の膜は甘くない。清潔な井戸の水みたいに“何も足さない”温度を保つ。その無味こそ、色欲の甘さを薄める唯一の対抗だ。
セインは赤い石を強く握った。胸の奥で、ラグナロクの残穢が“火”でも“氷”でもない温度で応える。
(借りるだけ。暴れない。重ねて、剥がす)
鍔を親指で二度弾く合図——右。
熱が刃の切っ先だけに灯り、次の刹那には消える。冷が柄に移り、腕の震えを凪がせる。拍は、まだ合う。
——その時、融合体が“笑った”。
片方の口元だけが、薔薇色に上がる。
「よくできました。褒美だ」
黄金の円環が、さらに広がった。
工房の外壁を超え、研究都市の地下回廊へ、そして地上の路面の下へ。
光の線が、街の“欲の配管”に噛みついていく。
「マズい!」
エルンが顔を上げる。「都市の欲動回路まで取りに行く気だ。市民の“欲”ごと“冠”にするつもり!」
「止める!」
エリシアが踏み切る。ミリアが薄膜を重ね、セインが刺して剥がし、エルンが影を連ねる。
連携は、まだ折れていない。
——だが、円環は止まらない。むしろ、こちらの動きの“美しさ”を取り込んで、より精巧な歯車へと成長していく。
融合体が宣言する。
「奪う。惑わす。すべては俺のものだ」
工房の灯が一斉に消えた。
黄金の魔法陣だけが残り、第二相の外に、第三の細い輪郭が“線香花火”の火玉みたいにぽつ、ぽつ、と生まれていく。
セインは奥歯を噛み、刃を構え直す。
ミリアは祈りの深さを一段落とし、届くところだけを確実に支える。
エリシアは剣先を下げ、次の一歩の絵を短く描き、視線を前に固定した。
エルンは背の壁を一瞥し、退路を焼き付ける。逃げるためじゃない。詰めるために。
床下で“カチン”と乾いた音がした。
——魔法陣の第三相が、起動する音だ。
黄金の輪はなおも広がり、工房の境界線を飲み込んでいく。
四人は足を割り、呼吸を揃えた。
拍が、合う。
そして——舞台は、完全に“欲と色”の手の内へ。




