第69話「欲と幻の檻 ―工房の闇―」
工房の奥、巨大な円形広間に足を踏み入れた瞬間、四人は息を呑んだ。
壁際にずらりと並ぶのは無数の硝子管。内部には液体が満たされ、そこに人の形をした影が浮かんでいた。
少女の顔を持ちながら胸から下は鱗に覆われた者。片腕だけが獣の顎に変質した老人。幼子ほどの肉塊がぐずぐずと溶けかけながらも呼吸し、未発達の眼球がぎょろりと揺れる姿。
生きている。呼吸のたび、硝子が曇り、その曇りが「助けて」と言葉を描いたようにすら見えた。
鼻を突くのは薬品と鉄錆の混じった匂い。床は常に微かに振動しており、どこかで機構が回り続けていることを示していた。静寂はあるのに、耳鳴りのような重圧が広間を満たす。
「……これが、実験の“成果”か」セインが喉奥で言った。
その声に呼応するように、広間中央に二つの影が歩み出る。
一人は巨体の男だった。全身の鎧は金と宝石で飾り立てられ、豪奢というよりも醜悪な輝きを放っている。動くだけで宝石が火花を散らし、片腕には異様に肥大化した黄金の籠手が嵌められていた。
「欲しいものは奪う。それが俺の掟だ」
雷鳴のような声が響く。
もう一人は女。透けるほど薄い黒布を幾重にも纏い、白磁の肌を隠しもせずさらしていた。黒髪は波のように腰まで流れ、紅の唇は嘲笑を湛えている。
「ようこそ……欲望と快楽の檻へ。せっかく来たんだもの、乱れていってちょうだい」
名は語られずとも圧でわかる。
——強欲派幹部、グランディオス。
——色欲派幹部、セレーネ。
「二人同時か……面倒だな」エルンがワイヤーを指に絡め、低く笑った。
「乱れなど求めていない」ミリアが祈りの姿勢をとる。
「私たちは前に進むだけ」エリシアは剣を構え直した。
幹部二人は互いを見もせず、笑った。協力というよりも、互いを利用し合う利害一致の笑み。それぞれの「欲」を満たすために、目の前の四人を狩ろうとしているのは明らかだった。
「まずはそこの小僧どもだ」
グランディオスが一歩踏み込む。その一歩で床石が砕け、広間全体に衝撃が走る。
「行くぞ、セイン!」エルンがワイヤーを走らせる。
「任せろ!」セインは刃を構え、同拍で踏み込んだ。
〈同拍刺し〉。セインの刃が黄金の鎧の隙間を突く——はずだった。
しかし。
「遅い!」
まるで鏡写しのように、グランディオスが同じ動作を放った。
〈同拍刺し〉。完全な模倣。
「なっ……!」
セインの剣と、模倣された剣が衝突する。倍の重さで押し返され、セインは後方へ弾かれた。
「見ただけで……俺の技を?」
「奪ったら俺のもの。技も力も、全部だ」豪快な笑いが響いた。
「隙はそこだ」エルンが飛び込む。
ワイヤーが巨腕の籠手に絡みつき、力任せに引き下げる。グランディオスの体勢が崩れる。
「セイン、今だ!」
セインは裏拍で滑り込み、〈裏拍滑り〉を放つ。リズムをずらした刃が籠手の内側を抜け、鎧に火花を散らした。
「模倣できても理解できなければ使えない!」
巨体が弾かれ、黄金の鎧に初めて傷が刻まれる。
「クハハッ! 良い、良いぞ!」グランディオスは血を吐きながらも笑った。「もっと奪わせろ!」
一方、セレーネの指先から黒い光が舞った。
「欲望は幻に宿る。あなたたちの心を暴いてあげる」
視界が揺れ、二人は囚われた。
「……トーマ?」
エリシアの前に、かつての仲間の幻が立っていた。優しく手を差し伸べ、あの日の声で囁く。
「守ってやる。もう泣くな」
「セイン……?」
ミリアの前には、彼の幻影。頬に触れ、甘い声で囁きかける。
「大丈夫だ、傍にいる」
胸の奥が熱に震え、祈りの声が途切れそうになる。
「心地よいでしょう?」セレーネが艶やかに舞う。「抗う必要はないわ。欲望に委ねなさい」
「黙れ!」
エリシアは涙をこらえ、幻を斬った。剣筋が震え、胸が抉られる。それでも声を張り上げる。
「私の剣は幻じゃなく、現実を斬る!」
ミリアは震える声で祈りを紡ぐ。
「幻は……膜を剥がせば……消える」
光と風と水が重なり、幻影を削り取る。
セレーネの姿が露わになり、布衣が裂け、白い肌に薄紅の傷が走った。
「……ここまで私を追い込むなんて」
セレーネが壁際へ後退する。艶やかな瞳に、初めて焦りが混じった。
同時に、グランディオスも膝をついていた。セインとエルンの連携が彼を追い詰め、鎧は軋みを上げる。
広間に勝機の気配が走る。
「……これで終わらせる」セインが刃を構える。
「まだ……立てる!」エリシアが涙の奥で叫ぶ。
だが。
「終わらせる? 違うな」
グランディオスの声が低く響いた。血に濡れながらも、瞳は異様な輝きを放っている。
「ここからが本番だ」
床一面に黄金の紋が走った。幾重にも重なり、広間全体を覆う。
「やめろ、それは……!」セレーネが顔を歪める。「禁じられているはず!」
「強欲に禁忌はない」グランディオスは笑う。「お前すら俺のものにする!」
「やめろ! 私は望んでいない!」
セレーネが悲鳴を上げる。黒布が翻り、幻が乱れ飛ぶ。
四人は凍りついた。
黄金の魔法陣が渦を巻き、光が天井まで伸びる。硝子管が砕け、液体が床を染める。
欲と幻の二つの力が、ひとつに縫い合わされようとしていた。
「これが……強欲の禁忌……!」
セインの声が震えた瞬間、光が爆ぜる。




