第68話「工房の影」
夜の研究都市メルクリウムは、昼の喧噪とはまるで別の顔をしていた。
昼間は白衣姿の研究者と商人であふれていた街路も、今は人影がまばらで、代わりに赤い灯が路地裏から漏れ出している。歓楽街の声が遠く響き、風に混じって薬品の匂いと油煙が鼻を刺す。
「……静かだな」エルンが低く呟いた。
「静かすぎる」セインは頷き、視線を工房の方角に向けた。
中央区にそびえる扉工房は、巨大な塔のような建造物だ。外壁には幾重もの符丁が浮かび上がり、触れれば即座に警報を鳴らすであろう光の罠が巡っている。昼は堂々と研究員が出入りするが、夜はその扉が固く閉ざされ、監視兵の影が一定の間隔で動いていた。
「真正面は論外だね」ミリアが囁く。
「だからこその地下通路だ」エルンは腰のポーチを叩く。「搬入口の図面は間違いなくここに記されていた。地下排気路、そこから入れる」
「格子は任せろ。錆びていようが魔符で固めていようが、俺が外す」
そう言う彼の目は獣のように鋭い。
セインは三人の顔を見回し、短く頷いた。
「行こう。ペンダントの反応も、工房の中心を指している」
地下通路の入口は、工房の外壁から少し離れた下水の合流口にあった。石畳を外して降りると、湿った空気と水の匂いが押し寄せてくる。月明かりも届かない闇の中、ミリアが小声で祈りを唱えると、掌の上に淡い光球が生まれた。
「……頼りになるね」エリシアが笑う。
「消音もかけてある。光の揺れは外には漏れないはず」ミリアは小さく返した。
格子は厚い鉄でできており、錆の隙間に微かに符丁が走っていた。エルンはワイヤーを取り出し、錨のように噛ませてから小さく呟く。
「斜面押し……」
力がかかると、符丁が一瞬だけ逆流し、鉄格子が音もなく外れた。
「やるじゃない」エリシアが感心して見せる。
「褒めるな、緊張が解ける」エルンは苦い顔で答える。
四人は身を屈め、闇の中を進んだ。
工房内部は異様だった。
通路の壁には瓶や試験管が並び、青や緑の液体が絶えず泡を立てている。金属の管が天井から垂れ下がり、ところどころから煙が漏れていた。奥の方からは「カチリ、カチリ」と機械仕掛けの音と、人の呻き声のようなものが混ざり合って聞こえる。
「……誰か、閉じ込められてる?」エリシアの声はわずかに震えていた。
「囚人か、実験体か」セインは低く答える。
通路を抜けるごとにペンダントが脈動を強める。まるで生き物の鼓動のように胸を叩き、先へ進めとせき立てていた。
その時——前方に影が現れた。
黒衣の人物が三人。仮面をかぶり、手には短剣と符丁を刻んだ棒を持っている。研究員ではない。明らかにカルト派の監視役だ。
「……潜入者か」
仮面の一人が低く呟き、符丁を叩いた。青白い光が通路を走る。
「見つかった!」エリシアが剣を抜いた。
セインは即座に前へ出て、刃を構える。「戦うしかない!」
エルンのワイヤーが唸り、敵の腕に絡みついた。引き倒すと同時に、ミリアが祈りを放ち、光の膜が前方に展開される。敵の符丁が火花を散らすが、膜に弾かれた。
セインは一気に距離を詰め、黒衣の胸元を突いた。刃が符丁を割り、仮面が砕け散る。呻き声とともに敵は崩れ落ちた。
「残り二人!」エリシアが叫び、二合、三合と切り結ぶ。火花が散り、狭い通路に鋼音が響いた。
だがそのとき、奥の扉が軋んだ。
「……なに、今の音」ミリアが振り返った瞬間、重い足音が響いた。
現れたのは、人の形をしているが人ではないもの。
巨体の獣のような影、皮膚の一部は硝子のように硬化し、光を反射している。片腕は異様に膨れ上がり、透明な結晶の槍となっていた。目は赤く濁り、口からは泡混じりの唸りが漏れる。
「実験体……!?」エルンが目を見開く。
怪物は黒衣の一人に飛びかかり、骨を噛み砕いた。血と硝子片が飛び散り、残りの一人は悲鳴を上げて逃げ去る。
「やるしかない!」セインが叫んだ。
怪物の槍腕が床を薙ぎ、石畳が粉砕された。四人は散開し、ミリアが咄嗟に祈り膜を展開する。破片の雨を受け流し、エリシアが風を纏って踏み込む。
「いくよッ!」
彼女の剣が硝子の装甲を叩くが、弾かれて火花が散った。
「硬すぎる!」エリシアが叫ぶ。
「俺が裂く!」エルンが横からワイヤーを絡め、槍腕を縛ろうとする。だが怪物は咆哮と共に腕を振り回し、壁ごと切り裂いた。
「持たねえ!」
セインは刃を逆手に構え、ペンダントの拍に耳を澄ませた。心臓の鼓動と重ね、怪物の動きに「裏拍」を合わせる。槍腕が振り下ろされた瞬間、彼はわずかにずれた角度で踏み込み、斬り上げた。
「——同拍刺し!」
刃が硝子の継ぎ目を裂き、赤黒い液が噴き出す。怪物は絶叫を上げ、よろめいた。そこへエリシアの雷を纏った一撃が叩き込まれる。
「倒れて!」
裂け目がさらに広がり、怪物は壁に叩きつけられた。最後にミリアの祈りの光が頭上から降り、全身を貫いた。硝子が粉砕され、怪物は沈黙した。
荒い呼吸だけが通路に残った。
セインは剣を下ろし、仲間を見渡す。全員、無事だ。
だがペンダントはまだ鳴り続けていた。
鼓動はさらに強く、奥の扉を指し示している。
その扉には、奇妙な封蝋が刻まれていた。
赤い唇のような印、滴るような形の紋。
「……色欲派」ミリアが顔を強張らせた。
「やっぱりここに……いるんだな」セインは低く呟く。
闇の奥に、次の敵の気配が確かにあった。




