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第67話「研究都市メルクリウムの影」



玻璃湿原の朝は白かった。

夜明けの靄が砂の上に残り、遠くの地平線まで続く透明な膜のように張りついている。その向こうに、いくつもの塔が林立していた。青い符光が縦横に交差し、塔と塔を繋ぐアーチには鉄のケーブルが走っている。そこが——研究都市メルクリウム。


「……ここが、扉工房の街か」セインが呟いた。


外から見れば、ただの巨大な学問都市に過ぎない。だが玻璃湿原の塔で拾った黒封蝋の札には、この都市の名が刻まれていた。さらに残された断片には「扉工房」「位相鍵の調律実験」という文字。鍵と黒封蝋を追うなら、この都市を避けることはできない。


彼らは荷台の隅に身を潜め、外輪の門を越えた。荷台の上には砂漠商人の荷物が積まれており、名目は「書物と実験器材の搬入」。馬車の揺れに合わせて微かに軋む木の音だけが響いている。


門の兵が槍で荷を突いたとき、全員の心臓が一瞬止まった。

「商人ラシードか。いつものだな」

「学匠院の印もある。通せ」

乾いた声が聞こえ、荷台が再び動き始めた。


息を詰めていたエルンが、小さく吐息を漏らす。

「危なっかしいにも程があるな……」

「でも入れたわ」ミリアが微笑んだ。

その横で、エリシアは腰の剣を握りしめ、街並みに目を輝かせていた。


 


都市内部は、まるで巨大な鍛冶場と学術院を合わせたような景観だった。

路地には歯車と蒸気管が並び、空中には魔導飛行機械が飛び交う。白衣を着た学者たちが羊皮紙を抱えて走り抜け、荷車には奇妙な鉱石や薬液が山積みされている。路上には魔術式の光る罠文字が刻まれ、実験に失敗したのか黒煙を上げている小屋もあった。


「知の街……というより、狂気の街だな」エルンが呟いた。

「でも人は多い。正面から怪しまれずに動けるかもしれない」セインは周囲を見渡す。


ただ、街は賑わいだけではない。路地裏に入れば、顔を覆った人影がひっそりと立ち、鋭い視線がこちらを追ってくる。研究都市は学問の名のもとに外から人材と資金を集め、その裏でカルト派閥や商人組合が利権を奪い合っていた。彼らが今潜ろうとしているのは、正にその渦中だ。


 


宿に荷を下ろし、簡素な部屋を取った。扉を閉めると、ようやく緊張が緩む。

セインはペンダントを開き、中の赤い石を覗き込んだ。微かに震えている。

「……間違いない。この街のどこかに位相鍵の断片がある」


机を囲み、四人は潜入の段取りを再確認した。

•エリシアは剣士見習いとして街の訓練場に潜入し、外郭の警備や通用門を探る。

•エルンは商人崩れを装って工房関係者の搬入路を調べ、逃走経路を確保する。

•ミリアは学生を装い、学匠院に出入りして資料や人脈を探る。

•セインは護衛役として全体を繋ぎ、ペンダントの反応を追う。


「これで行こう」セインが頷いた。

エルンは苦笑いを浮かべて腕を組む。「どこまで誤魔化せるかだな」

エリシアは剣を抱きしめて「やってみせる」と瞳を光らせ、ミリアは祈りの印を胸の前で結びながら「必ず守る」と静かに言った。


その時、ペンダントがかすかに鳴った。赤い光が、街の中央——扉工房の方向を指していた。


 


潜入はすぐに始まった。


昼の街は表向き明るい。書物屋では子供が符丁を唱え、酒場では学匠が実験の成果を自慢している。だが視線を変えれば、裏通りの壁には奇怪な紋章が刻まれ、路地には薬漬けになった人間が倒れている。


「気を抜くな」セインが小声で言う。

「わかってる」エルンは荷物を担いだまま答えるが、額にうっすら汗を浮かべている。


途中、槍を持った監視兵に呼び止められた。

「そこの荷は何だ?」

「学匠院への納品だ」エルンが即座に商人風の口上を並べ立てる。「昨日仕入れた砂鉄と硝子粉末、今朝の契約に間に合わせねば信用を失う」


兵は疑わしげに睨んだが、ミリアが前に出て柔らかく微笑み、「先生に頼まれましたの」と学生の身分証を掲げた。祈りのような気配が彼女の声に乗り、兵士は一瞬だけ表情を緩める。

「……通れ」


彼らは歩を進めるが、背後の視線がいつまでも消えなかった。


 


夕刻、学匠院近くの図書館に辿り着いた。荘厳な石造りの建物の内部は、無数の書架が並び、研究者たちが黙々と符丁を読み解いている。

エリシアが小声で「すごい量……」と呟くと、セインは頷きながら周囲を探る。


目的は工房の内部構造に関する資料。表には出せない機密であろうが、この都市の図書館は不思議と緩く、ある程度の情報なら閲覧可能だった。エルンが器用に目録を操り、いくつかの写本を抜き出す。その中には、工房の搬入口や図面の断片が混じっていた。


「これなら……道は開ける」セインは拳を握る。


だが安心は一瞬だけだった。資料を閉じたとき、視界の隅に影があった。黒衣の人物が、一瞬こちらを振り返り、すぐに群衆に紛れて消える。


「見られてる……」ミリアが息を詰める。

セインは無言で頷いた。


 


夜。街は赤い灯に染まっていた。研究者たちの喧噪は途絶え、代わりに酒場と娼館が人を吸い込む。笑い声と嬌声、賭場の金属音。

メルクリウムは「知」と「欲」の二つで成り立つ街だと、誰もが実感する時間だった。


路地裏に集まった四人は、工房中央の塔を見上げた。

ペンダントが強く鳴り、赤い光を放っている。


セインは深く息を吐き、低く言った。

「ここにある。位相鍵の断片も、黒封蝋も。そして……俺たちの次の敵も」


風が塔を巡り、都市全体が唸るように鳴いた。

潜入は、すでに始まっている。


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