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66話「夜の都市と小瓶」



玻璃湿原の塔で拾った黒封蝋の札には「研究都市メルクリウム」の名が刻まれていた。さらに記録の断片には「扉工房」「位相鍵の調律実験」という言葉が残されていた。次の手掛かりはそこにある。それは誰の目にも明らかで、誰も否定できなかった。


だがメルクリウムは閉ざされた都市だ。表向きは学問と商業の繁栄を誇りながら、外部者の立ち入りには厳しく、正規の手続きを踏めば数週間も足止めを食らう。ましてや彼らが追う「黒封蝋」の痕跡を正面から尋ねれば、即座にカルト派閥の耳に届いてしまうだろう。潜入——それしか方法はなかった。


夜の都市は昼よりも眩い。高塔の尖端から白光が放たれ、外輪の石街路を照らしている。上空では魔導機械の飛行船がゆるやかに旋回し、扉工房の中央部はまるで鼓動する心臓のように脈動していた。四人は外輪の一角にある宿へ足を踏み入れた。


受付にいた女主人は愛想よく微笑み、鍵と一緒に小瓶を差し出してきた。

「旅の疲れを癒しますよ。甘い夢を見られる薬です。数滴で十分」


透明な液体はわずかに甘い香りを放ち、光を屈折して七色に揺れる。見た目はただの回復薬か、せいぜい眠気を和らげる補助剤に見えた。

「……まあ、ありがたくもらっておくか」エルンは鼻を鳴らして受け取り、机に無造作に置いた。


部屋に戻った四人は机を囲み、翌日の段取りを確認した。エルンは外輪の搬入口を探り、逃走路を確保。エリシアは剣士見習いとして潜入。ミリアは学生の偽装をして祈り膜で支援。セインは護衛として立ち、赤いペンダントの反応を追う。計画は一通り固まったが、誰もが疲れ切っていた。


「今日はもう休もう」

セインがそう言うより早く、エルンは椅子に凭れたまま目を閉じており、エリシアも剣を抱いて床に丸まり、浅い寝息を立てていた。


残ったのはセインとミリアだけだった。月明かりが窓から差し込み、薄闇に二人の影を長く落としている。言葉を探すのに胸の鼓動ばかりが早まり、互いに口を開けずにいた。気まずさを紛らわせるように、ミリアは机の上の小瓶に目を留める。


「……少しだけならいいよね」

彼女はそう言って栓を外し、ためらいなく口をつけた。透明な液体は一瞬甘く、次に舌を刺すような熱さを残して喉を滑っていった。


「えっ……おい、大丈夫か?」セインが慌てて身を乗り出す。

「だ、大丈夫……たぶん……」そう答えたミリアの声は掠れていた。


頬に朱が広がり、呼吸が浅く速くなる。指先が震え、視線が絡んでは逸れる。吐息は熱を帯び、甘い香りが空気に混じった。セインは戸惑い、何度も声をかけようとしたが、そのたび喉がひゅっと鳴って言葉にならない。


「……なんだか、熱い……」ミリアが呟く。

彼女はふらりと近づき、膝が触れる距離に座り込んだ。吐息が首筋にかかり、心臓が耳元で鳴るように響く。セインは背を引こうとしたが、すぐ壁に当たり退けなかった。


「ミリア、落ち着けって……」

声は震え、制止にならない。


ミリアは濡れたような瞳で彼を見つめ、細い手をセインの胸元へ滑らせた。布越しに鼓動が伝わり、セインの体が強張る。

「セイン……こっちを見て」

囁く声は甘く掠れ、拒む余地を残さなかった。


挿絵(By みてみん)


顔が近づく。吐息が唇に触れる。セインの理性は「止めろ」と叫んでいたが、心と体は別の反応を示していた。彼は名を呼ぶことでしか抵抗できなかった。

「……ミリア……」


その瞬間、彼女は彼に覆い被さった。体の重み、熱、震えが一気に押し寄せる。逃げ場はなかった。セインは胸の奥で覚悟を決め、彼女の名をもう一度呼んだ——


だが返事はなかった。ミリアの体はぐらりと傾き、額をセインの肩に預け、次の瞬間には規則正しい呼吸を始めていた。眠ってしまったのだ。


「……なんだよ、それ……」

セインは力の抜けた笑みをこぼし、彼女をそっとベッドに横たえた。胸の奥に熱と未消化の鼓動だけが残ったまま、自分も床にベッドに背を預け、目を閉じた。


翌朝。

エリシアが思い出したように言った。

「そういえば昨日の小瓶、私たち飲まなかったね」


セインは顔を僅かに赤くしながら、真剣な声で答えた。

「……あれはやめたほうがいい。普通の薬じゃなかった」


エルンもエリシアも首をかしげたが、その声音に嘘はなく、誰も深くは追及しなかった。


四人は偽装を整え、搬入口に向かう荷台へと身を紛れ込ませる。工房群の塔が目前に迫り、都市の心臓が低く唸る。セインはペンダントを握りしめ、低く呟いた。

「ここからが本番だ」


白光の都市は、彼らを呑み込もうとしていた。



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