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65話「鏡の塔、薄明の書庫」—玻璃湿原・沈座殿内部



 玻璃湿原の朝は、割れた鏡の欠片みたいに冷たく光った。夜明けの靄が引き、足元の砂はまだ硬い。三歩ごとに硝子質へと相を変える帯をつたって、四人は沈座殿の中央へと進んだ。


 地平の切れ目に、それは立っている。斜めに傾いだ塔。表層は半透明の鉱硝で、内側を薄い風が巡り、縁だけが淡く蒼い。近づくほど、胸のペンダントが小さく拍を打った。


「反応はここで頭打ち」セインが足を止める。「入口は……面じゃない。拍で開く扉だ」


 ミリアがうなずき、掌を胸に当てる。「合わせる。二拍ずらして、一拍で戻す」


 エルンは先に回り、塔の影にワイヤーを仮掛けした。「右に崩れたときの逃げ道は作った。敵意は今のところ——薄い」


 エリシアは柄に指をかけ、塔肌に走る筋を目で追った。「継ぎ目、三つ。……ここが鍵穴の“筋”ね」


 セインがペンダントを指先で弾く。赤い石が低く鳴った。ミリアが二音の祈りを添え、四人の呼吸が揃う。塔の表面に、ごく細い円が浮かび、音を立てず開いた。


     ◇


 内部は、響きのない螺旋だった。足を置くたび、床の紋様が赤く息をする。壁は鏡面ではないのに、視線の端が自分の動きを遅れて返す。


「幻影系、あり」エルンが囁き、足幅を半寸狭める。「誘導に乗るな」


 最初の曲がり角を抜けた瞬間、床の影が跳ねた。舌のような光沢、斑のある鱗。鏡蜥蜴が四方の壁から滑り出す。正面の個体が喉を膨らませると、空気がひしゃげ、光の刃が走った。


「来る!」エリシアが半足だけ引き、棒先のように剣をまっすぐ出す。第二階位の風が刃先だけを太くし、斬れはしない角度で進路をずらす。光刃は壁で割れて散り、蜥蜴の眼の縁を浅く裂いた。


 セインは蜥蜴の影を一拍見た。床紋の脈動が、蜥蜴の呼気の拍とわずかに重なる。刃を寝かせ、薄い面を縫う角度で刺す——刃が通る。青い血が砂鉄の匂いを残して床に広がった。


「右!」ミリアの声。祈りが細い膜になってセインの肩を撫で、次の光刃の衝撃が半拍ずれる。その間にエルンが滑り込み、喉元へ短い打突。気配だけを先に置いて、音を遅らせる。鏡蜥蜴は自分の影に怯えたみたいに固まり、エルンの刃が静かに沈んだ。


 最後の一体は壁へ“溶け”て消えようとした。エリシアは笑わないで、笑うときの目でそれを見た。杖のように構えた剣の柄から、氷の筋を糸みたいに引く。壁面の“相”を一瞬、固相へ落とす。逃げ場を失った蜥蜴の背が露出し、セインの斜突がそこで止めた。


 短い戦いだった。息は上がらない。四人は互いの位置を目で確かめ、再び螺旋を登る。


「成長、してる」ミリアが自分に言い聞かせるみたいに小さく言った。


「ここまで来て、やっとな」エルンは口元だけ動かして笑う。「油断すればすぐ落ちる。だから——先に目で落ちる場所を潰す」


 セインは刃を拭いながら、胸の拍をもう一度合わせ直した。ミリアがそっと二音を添え、ペンダントの熱が安定する。


     ◇


 塔の腹は書架だった。頁ではない、板だ。硝子に似た板が蜂の巣みたいに差し込まれ、指で触れると水紋のように図が揺れる。言語は統一されていない。数式、符丁、地図の断片。


 エルンが最初に見つけた。「これ。渇望じゃない。嫉妬派の符丁だ」


 差し出された板には、棘のような筆致で「鏡流記」とある。鏡を介した“流れ”の記録。そこに重ねて、別の角度の刻みが薄く走る。


「強欲の手癖」エルンが目付きを細める。「投入記号と収支見出し。投資元の略号が刻んである。……メルクリウム」


 セインとミリアが同時に顔を上げた。赤い石が胸で、短く鳴る。


「学術都市メルクリウム。扉工学の中枢」ミリアが言う。「色んな宗派が研究資金を紛れ込ませやすい。表の理屈に、裏の目的をくっつけられる」


「嫉妬派が鏡を使って“視る”。強欲がそこに金を流し、“扉”を開く計画を急がせる」エルンの声は低い。「派閥同士が混じって仕事をしてる。権限争いか、裏の合意かはわからん」


 エリシアは書架の別段を指で弾いた。薄い音。そこには地図に似た図。湿原から一日の距離に、三角の印。——「中継基壇・γ(ガンマ)」。


「転移の踏み台ね」エリシアが言う。「ここで位相を揃えて、都市の“外輪”に接続する」


 セインは頷いた。「行き先が決まった」


 ミリアがふと、別の板に手を触れた。黒い封蝋の小札が一枚、板の裏に貼られていた。剥がして光に透かす。翼のサンダルと杖——神界の印ではない。似せた偽物だ。封の縁に、細い傷が走っている。


「偽の“神印”。あたしたちの味方を装って、信号を混ぜるのが目的」ミリアが眉を潜める。「受け手が訓練されてないと、扉の拍を誤らせる」


 セインは小札をペンダントの背に押しあてた。赤い石が嫌うように一拍だけ脈を乱し、すぐ安定に戻る。「ここは“試験場”。嫉妬派が鏡で覗き、強欲が投資し、誰かが偽の神印で信号を汚す。——白塔へ向けられた“前哨”だったのかもしれない」


 沈黙が落ちた。塔の上で、細い風が一度だけ巡る。


「なら、止め方は簡単」エリシアが言った。柄に軽く指を添え、刃の腹で小札を二つに割る。「混ぜ物は、混ざる前に切る」


 エルンは書架をもう一巡し、必要な板だけを薄い帆布に包んだ。「持ち出す。追跡の仕掛けは——なし。……いや、一枚に薄い楔。外で落とす」


 ミリアが目を閉じ、短く祈る。「塔よ、私たちを忘れて。ここで得た道筋だけ、残して」


 赤い光が足下でゆるく回り、書架の多くが“読めない”ただの硝子に戻っていく。必要な痕跡だけを残し、余計な路は閉じられた。


     ◇


 最上段へ向かう螺旋の途中、薄い砂の音。天井裏から、白い翅の群れがぼんやり降りてきた。幻影蟲。個体ごとに微弱な幻を流し、心拍の乱れに合わせて濃度を上げる習性がある。


「目を閉じるな。目を開けたまま、見ない」エルンが低く言い、鼻から吸って口から四つ吐く。


 蟲の翅が、薄い人声のようなざわめきを立てる。エリシアの視界の縁に、庭先の雨の線が一瞬だけ走った。彼女は歯でそれを噛み砕くみたいに、喉の奥で息を鳴らした。


「大丈夫」ミリアが横に立ち、彼女の呼吸に二音を重ねる。「ここにいる。今を揃える」


 セインは刃を鞘に半分納め、柄で蟲の群れを掃く。振りではない。拍だ。翅の拍動とわざとずらし、薄い膜を破る角度だけを選ぶ。群れが一度よろめき、ミリアの祈りの“風”がその隙間を抜けて、群れの中心を巻き上げた。


 エルンのワイヤーが無音で走る。蟲の塊に二本、塔の梁に一本。張力を一瞬だけ和らげ、次の瞬間に引く。群れが“結び目”ごと裂け、散った翅は塔の光に溶けて消えた。


 静けさが戻る。四人は短く息を整え、最上段の間へ出た。


     ◇


 最上段は、小さな円卓と窓だけの部屋だった。窓の外は玻璃湿原の朝。遠くにうっすら、都市の尖塔群が見える。メルクリウムだ。


 円卓の中央に、針金で組まれた古い指向器が置かれている。セインが触れると、赤い石がそれに応え、針がわずかに都市の方角を指した。針の根元に薄い刻印。「位相鍵:外輪・扉工房」。


「外輪の扉工房に鍵がある」セインは言葉を短く落とした。


「続きは都市で」エルンが窓の外を見やる。「正面からは入らない。外輪へは学術便の荷に紛れるのが早い」


「学術便を呼ぶ印——転移院の札がある」ミリアが胸元のポーチから金属札を出した。「救護塔の医術師がくれた。ここでも響く」


「響かせるのはここじゃない」セインが首を振る。「塔の外。……ここは、もう役目を終えた」


 円卓の縁に、誰かの爪痕みたいな薄い傷が残っている。セインはそこへ指を触れ、短く目を閉じた。塔に礼を言う。言葉にならないまま、形だけ残して。


     ◇


 外へ降りる螺旋で、エリシアが小さく言った。「さっきの蟲、見せるものが下手だった」


「下手、ね」エルンが口の端で笑う。「うまくなるまで待ってる暇はない」


 ミリアはそのやりとりに口を挟まず、ただ二人の呼吸が揃っているのを確かめた。セインは最後尾で周囲を見張り、塔の脚を出たところで一度だけ振り返る。塔の蒼が、朝の白に溶けていく。


「行こう」彼は短く言った。


 四人は沈座殿から硝子帯を外れ、砂の相が柔らかく戻る場所まで下る。エルンが途中で帆布の包みから一枚の板を取り出し、薄い楔を抜いた。何も起きない。楔はただの目印だったらしい。砂に埋め、痕跡を消す。


 ミリアが金属札を両掌に挟み、祈りで薄い響きを乗せる。遠くで、風が一段だけ別の音色を混ぜた。学術便の短距離転移の反応だ。乾いた空に、細い白線が一本、走る。


「合図は届いた。拾いは十五分」ミリアが頷く。「その間に、足跡を——」


「消す」エルンが言い、ワイヤーで砂丘の稜線に三つの切れ目を作る。風が流れを変え、足跡の形がゆっくり撫で消された。


 待つ時間は、長くなかった。砂丘の向こうから静音の浮揚車が現れ、外輪を回る学術便のしるしが側面で光る。運転席の青年が一瞬こちらを見て、札に反応するように顎を引いた。


「救護塔からの転移者だな。外輪まで。荷台に乗れ」


 セインが短く礼を言い、四人は荷台へ。帆布の影が涼しい。浮揚車が砂をすべるように走り出すと、玻璃湿原は背へ遠ざかった。


 遠く、都市の輪郭が大きくなる。高密度の塔と扉の骨組みが、外輪の上に階段みたいに並ぶ。空には研究用の小艇が幾筋も交差し、扉工房の煙突から白い蒸気が上がっていた。


「——メルクリウム」エリシアが小声で名を呼ぶ。「敵だけじゃない。味方もいる。きっと」


「味方も、敵も、同じ顔で近づく場所だ」エルンが肩を回す。「だから、先に絵を描く。入る絵と、出る絵」


 セインは胸元の鍵を握った。拍は静かだ。けれど、確かに都市のほうへ引かれている。


「行って、掴む。鍵を。——それから、戻る道も」


 ミリアが頷き、四人の視線が交わる。浮揚車は外輪のゲートへ滑り込み、学術便専用の通路を昇っていく。扉工房の尖塔が目前に迫り、赤い石がポケットの布越しに低く鳴いた。


 新しい扉が、開きかけている。

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