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64話「玻璃獣の咆哮」—玻璃湿原・鏡面の狩場



 明け方の玻璃湿原は、音の薄い世界だった。

 夜の霧がほぐれ、砂と水の皮膜が一枚、また一枚と硝子へ変わっていく。足裏に伝わる硬さは季節外れの氷に似て、踏むたびに「キン」と鈴の欠片のような音が遅れて返った。


「右へ半歩。割れ目が走ってる」

 エルンが低く言い、ワイヤーの先で鏡面の節理を示す。鏡の下に閉じ込められた泡が、呼吸みたいに丸く並んでいた。


 セインはうなずき、ペンダントを掌で押さえた。赤い石は冷え、拍は静かだ。ミリアは風と水の薄膜を足首に巻き、滑り止めをつくる。エリシアは剣を柄ごと握り直し、鏡に映る自分の姿を一瞬だけ見た——映像がほんの少し遅れて笑った。遅延。湿原特有の“反射の癖”だ。


「……変ね。映りが半拍遅れる」

「音もだ」セインがささやく。「鈴みたいな反響が、いつもより深い」


 沈座殿と呼ばれる黒い基壇を回り込むと、湿原の湖心が見えた。円い水鏡が亀裂もなく張り、空の薄青を完璧に写している。無風、無音。遠くの砂丘が、揺れる蜃気楼ごと鏡に沈んでいる。


 最初の異変は、匂いだった。

 冷えたガラスを濡らしたときに立つ、甘いような鉄のような匂い。次いで、かすかな震え。鏡面の中央に皴が寄り、外へ外へと広がるより早く、下から音のない影が跳ね上がった。


 砕けた鏡の獣——硝子獣。

 狼の骨格に似た四肢、胸郭は多面体の水晶箱のように角度を変え、背は扇状の鏡片で逆立っている。歩くたび、足の下の鏡が薄く裂け、飛び散った破片が空中で止まりかけてはまた落ちた。頭部の眼窩に相当する窪みには虹色の反射が脈を打ち、口が開くと、舌の代わりに刃の束が揺れる。


「来る!」

 エリシアが踏み込み、風で間合いを滑らかに縮めた。雷の細い筋を剣に通し、関節の隙へ針のように流し込む——はずだった。


 光が裂けた。

 彼女の剣先から出た雷は、獣の胸で二つに割れ、左右の鏡片に吸い込まれて反転。次の瞬間、エリシア自身の右肩に「コツン」と針の痛みが跳ね返った。幻痛。鏡が“感じ”を折り返してくる。


「大丈夫?」

「問題ない。回路の“筋”をずらす」


 ミリアが指をすっと上げ、風の膜を三重に展げた。破片の雨が勢いを増す。鏡片が当たる寸前に膜がたわみ、音だけが鈍く胸に落ちる。だが、反射の遅延が膜の裏へ忍び込む。一瞬の恍惚にも似た眩暈が、こめかみに薄く刺さる。


「反射に“情動”が混ざってる。痛みと——気持ちよさ、両方」

「そっちは切る」ミリアは自分の胸骨を軽く叩き、拍を一つ落とした。「祈りで感覚の回路を閉じる。外からの“光り”は遮断」


 彼女の無詠唱が、湿原の空気に溶けた。風が静かに一段、低くなる。鈴の反響が遠ざかる。


 エルンは姿勢を低くし、ワイヤーを二本、逆手で握る。

「鏡の“面”に正対すると跳ね返る。十五度——いや、十二度、ずらす」


 第一射。撚線鈎が獣の前脚の基部に食い込みかけ、反射で噛み合った鏡面に弾かれる。頬に一筋、冷たい線。血の匂い。二射目は、沈座殿の基壇に先に打ってから角度を殺して獣の後脚へ。ワイヤーが「キ」と鳴り、鏡片の間に潜り込む。後脚が、半歩だけ止まる。


「一息」

「もらう!」


 セインが走る。刃先を微かに寝かせ、呼吸の半拍を前へ倒す。ペンダントが低く鳴り、獣の胸の虹色の脈が、空の反響とズレて見えた。見た目の鼓動は遅延している——本当の拍は、反射の内側で“先に”打っている。


(先拍——)

 彼は右手の親指で鍔を二度、軽く弾いた。自分の中の怒りと焦りを、線に変える合図。ヴァルターの冷、イフリートの熱。両極を刃の薄皮にうっすら載せ、微小な伸縮で“微細な割れ”を誘う。


 刺すのではない。面を滑る。

 胸郭の角と角の間、鏡の強度が最も弱くなる“交点”へ、半拍先の刺突を合わせた。硬さが噛み、すぐに冷気で締める。返す刃でわずかに熱を乗せ、脆さを作る。虹色の脈が一度だけ跳ね、獣の咆哮が遅れて爆ぜた。


「今!」

 ミリアの声が背を押す。エリシアは風で足場を増やし、氷で獣の膝を縫う。雷の筋を短く、深く通し、火で圧をかける。四元素は派手ではない。だが回路は繋がっていた。彼女の剣の周りに薄い渦が巻き、切っ先が脆くなった胸の継ぎ目へ吸い込まれる。


 獣が身を捩った。背の鏡片が一斉に逆立ち、反射の閃光が扇のようにひらく。空の白、湿原の青、彼ら自身の姿が千々に砕け、視界が白い針で満たされる。


「目を閉じるな、焦点を“一点に”!」

 エルンの声に、セインは瞼の裏で一点の黒を思い描く。それは剣の切っ先の小ささ。ミリアは祈りの旋律を半音だけ落とし、眩しさの回路を鈍らせる。エリシアは呼吸を一つ抜き、刃を押し込む角度をほんのわずか——爪先一枚ぶん傾けた。


 鏡が鳴いた。

 まるで薄い杯を湿った指で擦るような、長い高音。胸郭の継ぎ目に細い亀裂が走り、内側の“黒”が覗く。そこは反射しない、空も自分も映さない穴だった。


「退けない!」エリシアが押す。

「押さえる!」エルンが後脚のワイヤーを更に締める。掌の皮が焼ける匂い。

「落とす!」セインが刃の熱と冷を入れ替え、亀裂を広げる。

「届いて——」ミリアが喉の奥で短い祈りを弾き、四人の拍を一拍だけ揃えた。


 揃った瞬間、獣の胸が内側から崩れた。

 鏡片が内へ落ち、虹色の脈が黒に吸われる。咆哮が遅れて湿原を駆け、足元の鏡面に波紋のようなひびが走った。硝子獣は一歩よろめき、次の一歩で崩れ、最後の一歩で——砕けた。


 破片は雨にならなかった。

 空中で微細な砂にほどけ、風の流れを受けて霧のように散った。反射は音もなく消え、湿原の鈴の音がようやく途切れる。


「……終わった?」

 ミリアが息を吐く。風と水の膜が薄く解け、光の粒が彼女の指の周りで遅れて消えた。


 セインは刃を払って鞘に収め、膝に手をついて呼吸を整えた。ペンダントの赤がわずかに温度を持ち、二度、低く鳴る。彼は胸に言い聞かせるように、親指で石をなぞった。


「浄化された。土地の“歪み”が獣化してたんだね」

 ミリアが鏡面に膝をつき、祈りの残滓で水を撫でる。硬さが一枚ぶん和らぎ、鏡の下の砂がふっと息をした。


「素材は残るか?」

 エルンが崩れた中心に歩いていき、黒の残り香の中から胡桃ほどの透明核を拾い上げる。角度を変えるたび、内側に細い虹が走った。

「……玻璃核。術式の偏向に使える。売ってもいい、武具に組み込んでもいい」


「回路に入れれば、反射の“遅延”を逆手に取れるかも」

 エリシアがそう言って、剣の柄に核をかざす。刹那、彼女の指先がわずかに痺れ、笑って手を引いた。「今じゃない。帰ってから細工する」


 風が変わる。

 鈍かった空気の層が一段軽くなり、遠くで水鳥が一羽だけ鳴いた。湿原のあちこちで鏡化の周期がずれ、場所によっては砂が顔を出す。歩幅を測れば進める程度の“道”が、断片的に現れ始めていた。


「先へ行こう。沈座殿を二つ抜けて、南縁の断崖まで出たい」

 エルンが方角を示し、地図にない浅い凹凸を読み解く。

「拍は拾える?」

「拾う。……さっきの反射で狂った分は、戻せる」


 セインはうなずき、ミリアと目を合わせた。彼女は疲れの底で小さく笑って見せる。大丈夫。祈れば来る。必要なときに、必要なだけ。


 歩き出す前に、エリシアが振り返って湖心を見た。鏡の湖はもう、さほど完璧ではない。少し波が立ち、空の青が崩れ、現実の風が映っている。彼女は柄に軽く額を当て、短く呟いた。


「——行こう」


 四人は鏡と砂の境を縫うように歩いた。

 足音はもう鈴のようには響かない。代わりに、遠い方角で微かな水音が続き、湿原の奥へ奥へと誘う。沈座殿の影が一度長くなり、次の瞬間には短くなる。陽はまだ低いが、昇っている。


 ふと、セインのペンダントがまた二度だけ鳴いた。彼は振り返らず、前を見た。あの獣の“黒”はもう背中の向こうだ。これから先にあるのは、まだ名も知らない扉と、まだ名も知らない敵と、そして——まだ名も知らない自分たちの強さ。


 玻璃湿原の風が、ようやく普通の風に戻る。

 四人の影が細く伸び、鏡の上を淡く滑り、やがて砂の上へと移った。


 玻璃獣は消えた。

 道は、少しだけ、はっきりした。


 旅は続く。

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