第63話「玻璃湿原・主柱 ― 色欲の幹部リュクシア」
玻璃湿原の空気は、赤く染まっていた。
夜明けの光は白いはずなのに、鏡のような湖面は朱に濁り、踏み込むごとに熱の波を吐き出す。肌を撫でる風すら湿り気を帯び、どこか甘ったるい匂いを孕んでいた。まるで蜂蜜に似た芳香。それは心を安らげるのではなく、逆に落ち着きを乱す。
「……息が重い」ミリアが祈りを紡ぎ、胸の前で掌を合わせた。光の膜が揺らぎ、四人を包む。
「湿原全体が、術の領域だな」エルンが低く呟く。腰のワイヤーを何度も確かめながら、鋭い視線で奥を睨む。
セインの胸で、赤いペンダントが鈍く鳴った。拍が心臓と同期している。導かれている。奥へ、奥へと。
やがて視界の中央に、その“異形”が現れた。
湖の中心に立つ主柱。
白石の巨塔は、他の沈座殿の数倍もある。だが表面に刻まれた文様は、誰が見ても理解できる形をしていた。絡み合う唇。重ね合わさる抱擁の刻印。数え切れないほど反復され、塔全体を覆っている。
「これが……主柱」セインの声は掠れていた。
「いやな感じだな」エルンが唇を噛む。指先が無意識にワイヤーを弄ぶ。
そして、主柱の足元に立つ影がひとつ。
長い漆黒の髪を背に流し、薄布と鎖を組み合わせた衣装を纏った女。
その瞳は薔薇色に光り、口元には愉悦の笑みが浮かんでいる。
「あら……やっと来たのね」
甘く響く声。耳に届いた瞬間、胸の奥を爪でなぞられたように心臓が跳ねる。
「私はリュクシア。色欲を司る司教様に仕える、ただの幹部よ」
女は腰を揺らし、軽やかに歩を進める。「玻璃湿原は私の庭。ここに入った時点で、あなたたちの心は丸裸。隠しても無駄よ」
セインは剣を握り、低く構えた。
「……俺たちはお前に弄ばれるために来たんじゃない」
「強気ね。いいわ、もっと見せて」
リュクシアが薔薇色の瞳を細め、指先で鏡面をなぞった。
瞬間、湖が波打つ。鏡に映った影が揺らぎ、立ち上がる。
◇
セインの前に現れたのは——ミリア。
けれどその姿は普段の彼女ではなかった。背後から抱きつき、耳元に唇を寄せて囁く。
「ねえ、ずっと私を守って……あなたの剣で、私だけを」
背筋を熱が走る。セインは反射的に剣を振り払おうとするが、腕が遅れる。喉が乾き、視線が逸れない。
一方、ミリアの目の前には幻影のセインが現れていた。
優しく抱きすくめ、頬に口づけを落とす。
「君の祈りが欲しい。永遠に、僕だけに」
ミリアの胸が痛み、心臓が速まる。祈りの拍が乱れる。
エルンの前には、自分自身の影。
同じ顔、同じ体つき。だがその手はワイヤーで仲間を絡め取り、地へ引きずり倒している。
「縛れ。欲望ごと。お前は守りたいんじゃない、支配したいだけだ」
幻影のエルンが笑い、仲間を地に這わせる。その光景に、喉奥から怒りと恐怖がこみ上げる。
そして——エリシアの前に。
「……え」
瞳が揺れる。足が止まる。
そこに立っていたのは、トーマだった。
盾を背負い、あの日と同じ笑み。血に塗れたはずの顔が、穏やかに微笑んでいる。
「エリシア」
名を呼ぶ声が、甘くも切なくも響いた。
「俺は、ここにいる。まだ一緒に生きられる」
幻影のトーマが、彼女を抱き寄せる。温かい。あの夜に失ったはずの温もり。耳元に囁きが落ちる。
「もう離さない。お前を幸せにする」
「……うそ、やめて……」
エリシアの頬に涙が伝う。剣を握る手が震え、呼吸が乱れる。
◇
「見える?」リュクシアの声が湿原全体に広がる。
「これがあなたたちの“欲”。抗えないもの。欲望は罪じゃないわ。むしろ正しい。生きる理由。……だから委ねなさい」
セインの刃先が揺らぎ、ミリアの祈りが細り、エルンの膝が震える。
そしてエリシアは——幻影のトーマに縋りつきそうになっていた。
(ダメ……でも……トーマ……)
胸が張り裂けそうに痛い。理性と感情が拮抗し、涙で視界が滲む。
「エリシア!」セインの声が響いた。「それは幻だ! 本物じゃない!」
幻影トーマが振り返り、憂いを帯びた笑みを浮かべる。
「俺が幻だって? エリシア、俺は本物だ。だってお前が望んでる。だからここにいる」
エリシアの心臓が破裂しそうに高鳴った。
だが、剣を握る手を見下ろしたとき、彼女は気づいた。
その震えを止めるのは、自分しかいない。
「……そうね」
涙で濡れた頬を拭わず、彼女は剣を構えた。
「欲しいよ。会いたいよ。抱きしめたい。でも——あなたはもうここにいない」
叫びと共に、剣を振り抜く。
幻影トーマは微笑んだまま、刃に裂かれて消えた。
赤い硝子の破片が飛び散り、エリシアの胸を切り裂くような痛みを残す。
「だから私は、前に進む!」
◇
鏡の波が砕け、幻影が一斉に崩壊した。
セインは大きく息を吐き、剣を地に突いた。ミリアは祈りを結び直し、涙を拭った。エルンは血の味を噛み締めながら幻影の自分を睨み返した。
リュクシアは両手を打ち合わせ、愉快そうに笑った。
「あらあら……すごいわ。欲を切り裂いて進むなんて。普通なら快楽に溺れて壊れるのに」
薔薇色の瞳が輝き、唇が妖しく歪む。
「でもいいの。まだ浅いわ。次はもっと深く堕としてあげる」
彼女は主柱の影に溶け、甘い笑い声を残して消えた。
次の瞬間、柱の刻印が裂け、赤黒い薄片が吐き出される。
セインはそれを掴み、ペンダントに収めた。指先が焼けるように熱い。
耳元に、女の囁きが響く。
「まだ足りないわ。もっと曝け出して……あなたたちを愉しませてあげる」
四人は息を整え、互いに顔を見た。
玻璃湿原の風が冷たく吹き抜ける。けれど、その背にはまだ火照りが残っていた。




