表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
63/389

第63話「玻璃湿原・主柱 ― 色欲の幹部リュクシア」



 玻璃湿原の空気は、赤く染まっていた。

 夜明けの光は白いはずなのに、鏡のような湖面は朱に濁り、踏み込むごとに熱の波を吐き出す。肌を撫でる風すら湿り気を帯び、どこか甘ったるい匂いを孕んでいた。まるで蜂蜜に似た芳香。それは心を安らげるのではなく、逆に落ち着きを乱す。


「……息が重い」ミリアが祈りを紡ぎ、胸の前で掌を合わせた。光の膜が揺らぎ、四人を包む。

「湿原全体が、術の領域だな」エルンが低く呟く。腰のワイヤーを何度も確かめながら、鋭い視線で奥を睨む。

 セインの胸で、赤いペンダントが鈍く鳴った。拍が心臓と同期している。導かれている。奥へ、奥へと。


 やがて視界の中央に、その“異形”が現れた。


 湖の中心に立つ主柱。

 白石の巨塔は、他の沈座殿の数倍もある。だが表面に刻まれた文様は、誰が見ても理解できる形をしていた。絡み合う唇。重ね合わさる抱擁の刻印。数え切れないほど反復され、塔全体を覆っている。


「これが……主柱」セインの声は掠れていた。

「いやな感じだな」エルンが唇を噛む。指先が無意識にワイヤーを弄ぶ。


 そして、主柱の足元に立つ影がひとつ。


 長い漆黒の髪を背に流し、薄布と鎖を組み合わせた衣装を纏った女。

 その瞳は薔薇色に光り、口元には愉悦の笑みが浮かんでいる。


挿絵(By みてみん)


「あら……やっと来たのね」

 甘く響く声。耳に届いた瞬間、胸の奥を爪でなぞられたように心臓が跳ねる。


「私はリュクシア。色欲を司る司教様に仕える、ただの幹部よ」

 女は腰を揺らし、軽やかに歩を進める。「玻璃湿原は私の庭。ここに入った時点で、あなたたちの心は丸裸。隠しても無駄よ」


 セインは剣を握り、低く構えた。

「……俺たちはお前に弄ばれるために来たんじゃない」


「強気ね。いいわ、もっと見せて」

 リュクシアが薔薇色の瞳を細め、指先で鏡面をなぞった。


 瞬間、湖が波打つ。鏡に映った影が揺らぎ、立ち上がる。


     ◇


 セインの前に現れたのは——ミリア。

 けれどその姿は普段の彼女ではなかった。背後から抱きつき、耳元に唇を寄せて囁く。


「ねえ、ずっと私を守って……あなたの剣で、私だけを」


 背筋を熱が走る。セインは反射的に剣を振り払おうとするが、腕が遅れる。喉が乾き、視線が逸れない。


 一方、ミリアの目の前には幻影のセインが現れていた。

 優しく抱きすくめ、頬に口づけを落とす。

「君の祈りが欲しい。永遠に、僕だけに」

 ミリアの胸が痛み、心臓が速まる。祈りの拍が乱れる。


 エルンの前には、自分自身の影。

 同じ顔、同じ体つき。だがその手はワイヤーで仲間を絡め取り、地へ引きずり倒している。

「縛れ。欲望ごと。お前は守りたいんじゃない、支配したいだけだ」

 幻影のエルンが笑い、仲間を地に這わせる。その光景に、喉奥から怒りと恐怖がこみ上げる。


 そして——エリシアの前に。


「……え」

 瞳が揺れる。足が止まる。


 そこに立っていたのは、トーマだった。

 盾を背負い、あの日と同じ笑み。血に塗れたはずの顔が、穏やかに微笑んでいる。


「エリシア」

 名を呼ぶ声が、甘くも切なくも響いた。

「俺は、ここにいる。まだ一緒に生きられる」


 幻影のトーマが、彼女を抱き寄せる。温かい。あの夜に失ったはずの温もり。耳元に囁きが落ちる。

「もう離さない。お前を幸せにする」


「……うそ、やめて……」

 エリシアの頬に涙が伝う。剣を握る手が震え、呼吸が乱れる。


     ◇


「見える?」リュクシアの声が湿原全体に広がる。

「これがあなたたちの“欲”。抗えないもの。欲望は罪じゃないわ。むしろ正しい。生きる理由。……だから委ねなさい」


 セインの刃先が揺らぎ、ミリアの祈りが細り、エルンの膝が震える。

 そしてエリシアは——幻影のトーマに縋りつきそうになっていた。


(ダメ……でも……トーマ……)

 胸が張り裂けそうに痛い。理性と感情が拮抗し、涙で視界が滲む。


「エリシア!」セインの声が響いた。「それは幻だ! 本物じゃない!」


 幻影トーマが振り返り、憂いを帯びた笑みを浮かべる。

「俺が幻だって? エリシア、俺は本物だ。だってお前が望んでる。だからここにいる」


 エリシアの心臓が破裂しそうに高鳴った。

 だが、剣を握る手を見下ろしたとき、彼女は気づいた。

 その震えを止めるのは、自分しかいない。


「……そうね」

 涙で濡れた頬を拭わず、彼女は剣を構えた。


「欲しいよ。会いたいよ。抱きしめたい。でも——あなたはもうここにいない」


 叫びと共に、剣を振り抜く。


 幻影トーマは微笑んだまま、刃に裂かれて消えた。

 赤い硝子の破片が飛び散り、エリシアの胸を切り裂くような痛みを残す。


「だから私は、前に進む!」


     ◇


 鏡の波が砕け、幻影が一斉に崩壊した。

 セインは大きく息を吐き、剣を地に突いた。ミリアは祈りを結び直し、涙を拭った。エルンは血の味を噛み締めながら幻影の自分を睨み返した。


 リュクシアは両手を打ち合わせ、愉快そうに笑った。

「あらあら……すごいわ。欲を切り裂いて進むなんて。普通なら快楽に溺れて壊れるのに」


 薔薇色の瞳が輝き、唇が妖しく歪む。

「でもいいの。まだ浅いわ。次はもっと深く堕としてあげる」


 彼女は主柱の影に溶け、甘い笑い声を残して消えた。


 次の瞬間、柱の刻印が裂け、赤黒い薄片が吐き出される。

 セインはそれを掴み、ペンダントに収めた。指先が焼けるように熱い。


 耳元に、女の囁きが響く。

「まだ足りないわ。もっと曝け出して……あなたたちを愉しませてあげる」


 四人は息を整え、互いに顔を見た。

 玻璃湿原の風が冷たく吹き抜ける。けれど、その背にはまだ火照りが残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ