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62話「玻璃湿原—欲の眠り台」



 夜明け前の光を反射し、玻璃湿原はひとつの巨大な鏡のように広がっていた。

 足元には空が映り、遠い雲が逆さに漂う。歩くたびに波紋のような揺らぎが走り、呼吸すら鏡に吸い込まれるようで、心音だけがやけに鮮やかに響いた。


「……ここが、玻璃湿原」

 ミリアが声を落とす。吐息は白く、湿原に触れる前に溶けた。

 エルンは膝を折り、指で表面を叩いた。「硬いのは上層だけだ。踏み込みすぎれば沈む。歩幅は浅く、小刻みに」


 セインは胸の赤いペンダントに触れた。低い鈍音が返り、湿原の奥に並ぶ三つの基壇——沈座殿がはっきりと見えた。

 エリシアは剣の柄を握り、前を射抜く。「転位柱まで四百。……あの基壇を越えれば辿り着ける」


 四人は短く頷き合い、最初の沈座殿へ歩を進めた。


     ◇


 一つ目の沈座殿は黒い石の台座だった。縁に刻まれた紋は、嫉妬ではない。花弁のように広がる円環、その中心に滴を模した刻印——見る者をじっと誘う、色欲の符丁。

 触れた瞬間、空気が甘く湿った。匂いは花蜜に似て、喉の奥にじわりと熱を残す。


 次の瞬間、鏡面から影が立ち上がった。

 ——それは四人自身の姿。だが表情は艶やかに歪み、衣の隙間から覗く肌は濡れた光沢を帯びていた。


「やっと、二人きりになれたね」

 セインの前に立った影のエリシアが、熱い吐息を耳へ落とす。帯の結び目を指でなぞりながら囁いた。「剣よりも、この身体を欲してるんでしょう? ……ここで、試してみる?」


挿絵(By みてみん)


 ミリアの影は祈りの手をほどき、胸元を開いた。

「祈りはただの媚び。男たちを縛る鎖。——あなたも、それでいいんでしょう?」 

 甘い声とともに、指が鎖骨の下をゆっくり撫で下ろす。


挿絵(By みてみん)


 エルンの影は、後ろから喉を噛むように低く囁く。

「正義も秩序も、全部建前。ほんとは荒々しく奪いたいんだろう? その欲を出せば、楽になる」


 エリシアの前に立つ影は、逆に背中を見せて腰を揺らした。

「追うほど熱くなる。追いつけたら、どうするの? 刃じゃなくて、抱きしめるんじゃない?」


 甘い匂い、湿った吐息、衣擦れの音——全てが理性を削ぎ落とそうとする。


「……目を逸らすな」セインが低く言った。鍔を二度、鳴らす。「欲望を否定するな。認めて、選べ。拍を合わせろ」


 ミリアは唇を震わせ、それでも祈りを紡ぐ。「確かに寂しい。抱かれたくもなる。……でも私は祈りで立つ」

 光が彼女の周囲に淡く重なり、影の声を押し返す。


 エルンは苦笑して影の腕を振りほどいた。「奪いたいさ。だが奪うより、繋げたい。……それが俺の選びだ」

 ワイヤーが走り、影の足首を縫い止める。


 エリシアは一歩踏み込み、背を晒す影に刃を止めた。「確かに熱くなる。けど私が欲しいのは、真正面から切り結ぶこと」


 セインは胸の奥でざわめく欲を隠さず言葉に変えた。「欲しいものがある。触れたいと思う。——だが今は戦う」


 四人の拍が揃った瞬間、沈座殿が唸りをあげ、影が一斉に襲いかかる。

 剣と膜とワイヤーが交錯し、刃先が薄い面を刺し貫いた。影は快楽の吐息を残して崩れ、鏡面に溶けていく。

 符丁の赤が白へと変わり、一つ目の殿が鎮まった。


     ◇


 二つ目の殿では、より露骨だった。

 鏡の下から白い腕が伸び、足首をくすぐる。衣の裾が勝手に緩み、肌を撫でる風が甘く湿る。

 エリシアが顔をしかめた。「……下品すぎる」

 ミリアは頬を赤らめ、それでも祈る。「欲はある。認める。けど、支配はさせない」

 彼女の声で符丁が揺らぎ、四人は難なく通過した。


 三つ目の殿は沈黙していた。だが中央に立つと、輪が浮かび上がり、扉の座標が光った。

 セインはミリアに視線を送る。「拍はお前に任せる」

 ミリアは一瞬驚き、すぐに頷いた。「……任せて」

 祈りと歌を二音重ねると、輪が裏返り、白い光柱が立ち昇る。ペンダントが鳴動し、座標は遠い都市を指した。


「研究都市メルクリウム……」エルンが目を細める。「強欲の投資先だな」

「罠でも行く」エリシアが剣を下ろし、視線だけで遠景を射抜く。

 セインは頷き、光柱を握るように手を伸ばした。


     ◇


 夜が明ける。湿原の鏡は砂へ戻り、扉の輪郭がはっきりと結ばれる。

 その瞬間、遠くから甘やかな女の声が届いた。

「よく耐えたわね。けれど、欲は逃げない。いつでも、あなたたちを待っている」


 色欲の司教の遠隔の声。湿原全体が一度、熱を帯びて揺れた。

 だが四人は振り返らない。

 前だけを見る。光の扉が、彼らを招いていた。


「行こう」セインが鍔を二度鳴らす。

 三人が頷き、歩みを合わせる。

 影に惑わされず、欲を認めて選んだ足で。


 ——次の舞台は、研究都市メルクリウム。



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