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60話「浮遊都市の夜、四人の影」—アストラル転移間



 白い扉が消えたあとの静けさは、耳鳴りに似ていた。冷たい石の床が膝を奪い、呼吸だけが自分の音だと教えてくる。どれくらいそうしていたのか——遠くで風が鳴った。白塔の風ではない。ここはもう、別の場所だ。


「……生き残った。今はそれだけでいい」


 上から落ちるように、ヘルメスの声。顔を上げると、浅い光に縁どられた横顔がそこにあった。彼は翼も光も誇示せず、ただ立っていた。


「手は出せない。だから“場”だけは整える。医術師を呼ぶ。動ける者は仲間の脈を見て。深呼吸を——三つ」


 言われたとおりに息を入れる。肺の奥が軋むたび、胸の空洞が少しだけ形を持つ。ミリアは震える掌でエリシアの背に薄い温を置き、エルンは拳を額に当てて痛みで意識を繋いだ。セインは石に押しつけた手をゆっくり剥がし、立ち上がる。


 壁に埋め込まれた銘板が目に入った。古い文字で「転移間」。その下に小さく「独立医術院・第七救護塔」と刻まれている。ここがどこであれ、とにかく“生きて辿り着いた”。


 ほどなくして白衣の影が駆け込んだ。落ち着いた灰色の目をした医術師が、四人を一瞥して短く頷く。


「歩けるなら回廊へ。止血は私が看る。——祈り手、補助を頼める?」


 ミリアはうなずき、言葉を使わずに祈った。風と水と光の薄膜が傷に沿って滑り、拍を整える。彼女の指はまだ小さく震えているが、膜は途切れない。


「処置は最低限でいい」ヘルメスが医術師にだけ聞こえる声量で告げる。「ここは長く留まる場所じゃない」


 そう言うと、彼は一歩退いた。「私は行く。呼べば届く距離にはいる。——今は、息を継げ」


 セインは頷きかけ、喉で言葉がほどけた。「……ありがとう」


 ヘルメスは何も返さず、ただ視線だけで「生き延びろ」と告げて消えた。


     ◇


 回廊の窓は夜風を含んでいる。医術師の手当てが終わると、四人は無言のまま屋上へ出た。浮遊都市の縁が、遠い星図のようにきらめいている。


 エリシアが膝をついた。両手で顔を覆うと、指の隙間から静かに水が落ちる。最後に見た笑顔と、音のない「幸せに」が、まぶたの裏で何度も砕けた。


 セインは欄干に背を預け、赤いペンダントを握った。鍵を差したのは自分だ。回したのも自分だ。正しかった、と頭は言う。胸は頷かない。拳が震え、金具が掌に食い込む。


「……最後まで、前だったな。あいつ」


 エルンが低く言い、ポーチから巻帯を取り出して投げた。「血、まだ出てる。巻いとけ」


「助かる」


 布を巻く指は、少しぎこちない。結び目を引き締めるたび、別のところが緩むみたいに心が落ち着かない。


 ミリアはことばの代わりに、祈りの残り火をセインの拳とエリシアの肩にそっと分けた。言えば軽くなる類の痛みではないと分かっていたから、温度だけを置く。


「ごめん。足が……動かなかった」


 エリシアの声は小さい。ミリアは首を振る。「私も。声が出なかった」


 短い告白のあと、また長い沈黙。沈黙が冷え切る前に、エルンが夜景から視線を外した。


「——立つ足場が欲しい。手掛かりだ。ここは医術院だ、記録に強い。ヘルメスが“場”を選んだのなら、何かある」


 セインはうなずき、ペンダントを開いた。黒封蝋の薄紋が内側で弱く脈打っている。拾い集めてきた破片が、どこかを指すように。


     ◇


 ほどなく、控えめなノック。先ほどの医術師が布張りの帳面を抱えて現れた。


「位相鍵に関する照合記録に、一致ではないが“反応”が出た。——玻璃湿原の転位柱。周期的に砂と水面が硝子化する帯だ。柱の刻印に、似た紋影が複数報告されている」


 帳面の挿絵に指を触れると、セインのペンダントが小さく鳴った。胸の奥で、拍が一つだけ揃う。


「聞いたことがある」エルンが記憶をさらうように目を細めた。「夜になると地面が鏡みたいに固まる地帯。足音を消せるが、足跡は消えない」


「“沈座殿”って呼ばれる基壇が点在してるそうだ」医術師が頁をめくる。「学術隊が調査したが、途中で引き揚げている。——理由は“嫉妬派の符丁”に似たものの出現だと」


 ミリアが息を呑んでセインを見る。セインは視線で「行く」と答えた。


「明け方に短距離の橋を開く。拍は合わせられるか?」


「合わせるのは、私じゃなくてあなた」ミリアは小さく笑った。「私は落ちないための膜を張る。……祈れば、来るから」


「頼む」


 エリシアは涙の跡を袖で拭い、顔を上げた。「行こう。——立てる場所まで」


 医術師は頷き、扉の前で一礼した。「屋上の転移台は古いが現役だ。護衛は付けられない。代わりに、これを」

 差し出されたのは薄い金属札。緊急時、医術院の転移印を遠距離から“響かせる”ための使い捨て札だという。


「恩に着る」


 札を受け取るセインの手の震えは、さっきより少ない。ペンダントの熱も、さっきより静かだ。


     ◇


 夜が切れ始める。浮遊都市の下に薄い靄が出て、灯がひとつずつ消えていく。屋上の古い転移台で、四人は円の縁に立った。


「落ちたくない気持ちだけで踏ん張るな」エルンが短く言う。「着地の絵を先に描け」


「了解」エリシアが剣の柄に触れる。いつもの軽口はない。あるのは芯だ。


 ミリアは掌を胸に当て、静かに祈りを起こした。「膜、三。風・水・光。落下防止、矢弾偏向、眩光抑制——いける」


「拍、拾った」セインが息を整える。転移台の下で古い機構が鈍く鳴り、胸の鍵と擦れ音が半拍で絡む。ひと呼吸、ずらす。もうひと呼吸、重ねる。


「行こう」


 セインの声に三人が頷いた。白い輪郭が立ち上がり、空気が内側に折りたたまれる。転移の光が足元から昇る直前、四人は同じ方向を見た。そこに“いない”仲間の影を、一瞬だけ重ねるみたいに。


 光が立ち、景色が抜ける。玻璃湿原の夜明けが、彼らを待っている。

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