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59話「鍵が開く方へ」—白塔崩落、決断の扉



 黒い刃が夜を裂く、その瞬間だった。

 鐘の音にも似た、乾いた「カン」という響きが場の拍を切った。白塔の壁面に描かれた紋が一斉に点り、ヘルメスが風を切って降り立つ。黄金の翼は開かない。ただ、砂塵の中に立ち、短く告げた。


「ここまでだ。——今は勝てない。鍵を使え」


 セインは息を呑み、歯を食いしばる。「……逃げろってことか」


「生き延びろということだ」ヘルメスの目は冷静だった。「神は直接は手を出せない。だが“扉”なら開ける。君の鍵でな」


 灰鴉グランは微かに首を傾げ、面白そうに片目を細める。「神の使いか。声だけはよく通る」


 言葉に重ねるように、グランが剣を地へ立てた。空が一拍、軋む。白塔の天蓋のさらに上、夜空の一点が皺を寄せ、黒い星が生まれる。重力の塊。

 それが塔の先端に触れた。石が悲鳴もなく潰れ、砂となって落ちる。天から降る白砂。足元の石畳が、遠い海のようにうねった。


「急げ」ヘルメスの声が低く鋭い。「扉は“今”しか開かない」


 セインは振り向き、塔の大扉へ走った。鍵はポケットの内側、指先の汗に張り付いていた。震える手で差し込む。赤いペンダントが低く鳴き、鍵穴の内側で白光が芽吹く。


 扉の輪郭がふくらみ、白いろうが見える——転移路が開きかけた、その時。


「……トーマ」エリシアの声で、全員の足が止まった。


 石畳に横たわるトーマは、まだ目を開けられない。ミリアが重ねてきた薄膜の光が傷口を辛うじて縫い止めている。呼吸は浅く、かすれた音が喉の奥で擦れた。


 セインは扉と、トーマの間で足が固まった。鍵は差し込まれたまま、白光は揺らいでいる。

 黒い星が塔身をさらに噛み砕いた。崩れた天頂から、柱の破片が雨のように落ちてくる。


「置いていけるわけ、ない」ミリアが震えた声で言う。


 ヘルメスが首を振る。「時間がない」


 グランが歩き出した。重い足取りは奇妙に静かで、しかし一歩ごとに空気の層がきしむ。剣は下がったまま、ただ近づいてくる。

 セインの喉がひゅっと鳴った。脚は前に出ない。頭ではわかっている。ここで遅れれば、全員が潰れる——それでも、身体が拒んだ。


 その時だった。

 地面がふらりと揺れたのではない。トーマの身体が、ふらりと揺れたのだ。血の跡を引きながら片膝を立て、両腕で地を押し、よろめきながら——立ち上がった。


「……まだ、動ける」


 擦れた声が、砂塵の中で笑った。トーマは割れた盾の半片を腕に絡め、ふらつく足でグランの背へ回り込む。肩で呼吸を引き、裂けた腹から血がまた溢れる。


「くだらん足掻きだ」グランは振り向きもせず言った。


 次の瞬間、トーマが後ろから腕を回し、巨体を羽交い締めにした。確かに止まった——半歩だけ。

 トーマの足元に、錨の紋が走る。白塔の石畳が「きしっ」と鳴り、重心が縫い付けられた。


「行け!」トーマは叫ぶ。声は割れていたが、確かに通った。


 エリシアは一歩踏み出して——踏み出せなかった。足が床に貼り付いたみたいに動かない。喉から洩れるのは、名前の半分だけ。「トー……」


 ミリアの瞳が水で滲む。エルンは拳を握り、唇を噛み切って血の味を飲み下す。ヘルメスでさえ、片手を握り込んでいた。


「急げ!」ヘルメスが叱咤する。「今、彼が押さえている間にしか、道はない!」


 グランの肩が微かに震え、鼻で笑う気配がした。「面白い。だが、足りない」


 黒い大剣が少しだけ上がる。トーマはそれを見ず、地面へ指で陣を描いた。

 血で描く簡易陣。――錨陣・重縫。グランの腰と足に、目に見えない重さの針が打ち込まれる。巨体がもう“半歩”止まった。


「セイン」トーマは前を見ない。後ろからグランに食らいついたまま、声だけを投げる。「行け。……頼む」


 セインは鍵の柄を握りしめ、爪が白くなるほど力を込めた。

 扉の白光は、まるで呼吸のように縮み始めている。もう一度、黒い星が塔を食んだ。天井の骨が折れるような鈍い音。白砂の雨。崩れがこちらへ迫る。


 セインの足が動いた。身体のどこかが折れて、そこで初めて前に出た。

 彼は振り返り、ミリアの肩を抱いて押し、エルンの背を叩き、エリシアの手首を掴んだ。声は出ない。ただ、引いた。


 グランが拘束を剥ぎ取ろうと身を捩る。トーマがさらに魔力を絞る。血が喉から噴き、膝が折れかける。それでも、腕は離さない。

 拘束の紋が軋み、砕けかける。トーマの魔力はもう薄く、空気の向こう側へ消えそうだ。


 セインたちが扉へ辿り着く。白い縁に手が触れる。

 その刹那、四人が振り返った。視界の砂塵の向こう——トーマが笑っていた。血と埃に塗れているのに、不思議と穏やかな笑みだった。


「今まで、ありがとう」


 トーマは続ける。「セインごめん。ずっと、お前に嫉妬してた」


 視線がエリシアにまっすぐ飛んでくる。

 彼は言葉を継ぎ足した。ためらわず、短く、最後まで。


「エリシア。——好きだ。だから、生きろ」


 エリシアの喉から息が漏れた。伸ばした手が、空を掴む。届かない距離。

 扉の光が収束していく。縁が閉じ、開口が狭まる。崩落の爆ぜる音が一拍遅れて響く。


 セインは目を閉じ、唇を血が滲むほど噛んだ。鍵を回す。

 白が弾けた。


 光の縁が細くなり切る、その最後の瞬間。

 トーマの唇がもう一度だけ動いた。声はもう聞こえなかったが口の動きだけでエリシアにはわかった。


挿絵(By みてみん)


 ——幸せに。


 扉は閉ざされ、光は消えた。


     ◇


 白塔の天蓋が歪み、黒い星がさらに沈む。

 拘束陣は砂のように崩れ、トーマの腕から力が抜ける。灰鴉グランは一歩離れ、残った紋の痕を見下ろした。


「……悪くない筋だ」


 それだけを言う。賞賛でも、哀悼でもない声。

 白砂が視界を埋め、夜の空気が低く唸った。


     ◇


 転移の衝撃が抜け、冷たい石床が膝にじかに触れる。

 静寂。四人は誰も、すぐには立てない。


 ミリアは肩を震わせ、祈りの言葉を紡ごうとして、声にならず喉で崩した。

 エルンは壁にもたれ、拳を額に当てた。呼吸を整えるたび、肺の奥が焼ける。

 エリシアは床に座り込んだまま、両手で顔を覆う。指の隙間から、涙が絶え間なく落ちる。

 セインは拳を石に押しつけ、爪が割れても顔を上げられなかった。胸の奥に空洞ができたみたいで、息を吸っても満ちない。


 誰も「迎えに行こう」とは言わない。

 その言葉がこの場にふさわしくないことを、全員が知っていた。


 しばらくして、ようやくヘルメスの声が降りる。「……生き残った。——それだけは、君たちの勝ちだ」


 返事はなかった。だが四人は、ゆっくりと立ち上がる。

 失ったものの形が、互いの影を変えている。誰も口にしないまま、その重さだけが場に残った。


 遠くで風が鳴った。白塔からの風ではない。ここはもう、別の場所だ。

 新しい息を吸うことが、こんなにも難しいとは——誰も知らなかった。


 こうして、四人になった。


 夜はまだ、終わらない。

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