57話「灰鴉、重力の口」—白塔前・第一次交戦
白塔の足元に、船の影が落ちた。空を裂くように滑る巨艦。その舳先に、黒鉄の巨人が立っている。裂けた黒布のマントがはためき、灰色がかった髪が風に流れた。胸の紋章は、王冠を砕かれた獅子。
エリシアの喉が、名前を吐き出す前から燃えていた。
「……灰鴉!」
聞いた瞬間、巨人は笑った。荒れた無精髭の奥、獣のように白い歯が見える。
「嬢ちゃん。声は強くなったが、顔はあの雨の日のままだな」
空が軋む。エリシアは踏み込み、両掌を重ねた。そこに生まれた炎は、火ではない。光と圧力を押し込めた、丸い凶器。彼女は呼吸の一拍で、それをさらに締める。赤が白に近づき、音が消えた。
「行く……!」
投げはしない。押し出す。稲妻を走らせて表面をイオン化、貫通性を与える。炎球が飛ぶ軌跡の先、空気が焦げる匂いがした。——その瞬間、塔の外輪に仕込んでいた風の術式が“カチ”と噛み合う。見えない滑走路が開き、弾は中盤で一段、速度を跳ね上げた。二秒で半分の距離を食い、巨人の面前で——
圧がほどけ、炎が膨張。視界いっぱいの火壁になる。
「いい精度だ」灰鴉は楽しそうに言い、黒いタワーシールドを地に“トン”と置いた。
空間が沈むような音。盾の前に、黒い口が開く。縁は歪んだ星空、中心は底のない夜。炎は抵抗もしないまま、そこへ吸いこまれ——消えた。
「……消した?」トーマが息を呑む。
違う。ミリアが首を振る。胸の内側で、拍が一つ、逆向きに鳴った。
黒い口の奥から、火が戻ってくる。さっきより大きい。色が深い。温度が、明らかに高い。吸われた分だけ、重さを与えられ、強化されて——返ってくる。
「返すぞ」
灰鴉の低い声と同時に、強化された炎球が撃ち出された。初速からもうさっきを越えている。圧が前へ押し寄せ、空気が潰れたみたいに肺が痛む。
「前は俺だ!」
トーマが飛び出す。盾を前へ。魔力が縁に走り、鉄の板が一段膨張する。訓練で身体に叩き込んだ、巨大化の制御。衝突面積を稼ぎ、圧を受け止める。正面でぶつかった。火と鉄が悲鳴を上げ、視界が白く弾ける。
「押し返す!」
一歩、踏ん張った。だが次の瞬間、圧と速度の“残り”が肩口から骨へ叩きつけられる。地面がスライドし、トーマは盾ごと何メートルも後退、背中から転がった。肺から空気が勝手に出ていく。
(何倍にも強くなったはずだろ、俺は……!)
喉の中で、声にならない声が焼けた。歯を食いしばって起き上がる。盾を握り直す手が震えている。悔しさと、焦りと——隣で息を整えるエリシアの横顔に触れた瞬間、別の火が胸の奥で燃え広がった。
(俺は、エリシアが欲しい。誰にも渡したくない。だったら——誰にも勝てないくらい、強く、)
「トーマ、無理するな!」セインの声で思考が切れる。
「無理なんかじゃねえ……!」
トーマの反論は、灰鴉の踏み出す音にかき消された。一歩。ただそれだけで、白塔前の地面が低く沈む。巨体の周りの空気が重くなる。距離は変わらないのに、近づかれた気がする圧。
「まだまだ行けるだろう?」灰鴉は肩で盾を担ぎ直し、無造作に構えた。
セインが前に出る。刃先をわずかに下げた構え。足の裏で、地面の震えを測るように一歩。ペンダントが胸で一度だけ、鈍く鳴動した。地の振動と、その拍が——ほんの一瞬、噛み合った。
(……今のは)
考える時間はない。セインは駆け、灰鴉の盾の“面”の端へ斜めに切り込む。力を殺す角度。拍を合わせ、薄い面を突く刺し。だが盾の表面がふっと“沈んだ”。重力の布で打ち消すように、面が刃を受け流し、力は吸い上げられて消えた。鍔元が火花を散らし、衝撃だけが腕に戻る。
「軽い」
灰鴉がぽつりと言った。セインの背が汗で冷える。
「軽さを作っているのは悪くない。だが、俺は重さで遊べる」
横からエリシアの風の突きが入る。足元を凍らせ、膝を止め、雷で痺れを走らせ——火の圧で心臓を揺らす。彼女の剣筋は明らかに以前とは違う。魔法が剣を通って流れ、回路になっている。灰鴉はそれを見て、素直に感心したように頷いた。
「きれいな回しだ。だが——」
盾の縁をわずかにひとなで。見えない波が走る。エリシアの“回路”はそこで解かれ、風は破れ、雷は逸れ、氷は床に貼りつく。火だけが彼女の喉を焼き、咳が掠れた。
「くそっ、死角だ!」エルンが滑り込み、鏡面の陰からワイヤーを投げた。牙の付いた鋼線が盾の持ち手に絡む——はずだった。盾の周りの空気が渦を巻き、ワイヤーはくるりと方向を変え、塔のリブへ自ら絡みにいく。毒針が放たれる。風の乱れで落下角度をずらしたが、やはり“重さ”で引き戻され、盾に軽く弾かれた。
「重力の渦……」ミリアが低く息を吸う。祈りを胸で折り畳む。七元素を爆ぜさせるのではなく、撫でる。風で弾道を曲げ、水で圧を削り、土で足場を盛り、光で眩ませ、闇で輪郭をぼかし、火の滓を奪い、雷で拍を揺らす——彼女の無詠唱は、歌を使わないのに歌になっていた。祈りの手が、セインの肩を一瞬だけ軽くする。
「助かる」
「まだ……いける」
ミリアは自分の中に走る手応えに驚いていた。祈れば、来る。けれど、灰鴉の“返し”だけは、拍が合わない。ほんの少し、ズレている。そのズレは、弱点ではない。ただ、“完全ではない”という証だけ。
「調子に乗るな」
灰鴉が、盾の面をこちらへ向けた。黒い口が、もう一度開く。さっきよりも口径が大きい。空間がひずみ、足の裏の感覚が狂う。白塔の外壁に走る亀裂が、音もなく広がった。
「離れろ!」セインが叫ぶ。四人が散る。
しかし炎では来なかった。重力そのものが押し寄せる。押し、と言うより、沈み。全員の身体が一瞬で“重く”なる。膝が床へ吸い寄せられ、肺が潰れる。視界の端で、小石が宙へ浮いたと思ったら、黒い口へ落ちていく。上と下が、わからなくなる。
「耐えろ!」トーマが喉を裂く。「立て、俺!」
盾を両手で持ち直し、足を開く。胸骨が軋み、腕の筋が悲鳴を上げる。彼は盾の角度を微妙に変え、力の流れを地面へ逃がす。錨盾——ここが俺の場所だ。ここでみんなを抜かせない。視界の隅、エリシアの髪が風に揺れる。彼女の視線は前だけを見ている。
(振り向けよ。こっちを見ろ。俺は、そのために、)
心の底の声が、自分を蝕む。嫉妬、劣等感、そして渇望。ネガティブな熱は、灰鴉が撒く“重さ”と混じって、トーマの内側で形を持ち始める。
「トーマ!」エリシアが叫ぶ。彼は顔を上げた。エリシアの声は、重さを一瞬だけ軽くした。
「問題ねえ!」
声に力を込めたとき、ペンダントが再び低く鳴った。セインは足場を蹴る。刃先をわずかに寝かせ、黒い口の縁——重さと軽さの境界へ滑り込ませる。だが縁は生き物のように位置を変え、刃は空を切った。
灰鴉は退屈そうに肩を竦める。
「腹ごなしは終わりだ。——次は“本当に重い”やり方を見せてやる」
艦の影が、さらに濃くなった。上空の船腹がゆっくりと回り、複数の砲門がこちらへ向く。白塔前の風が止まり、夜の音が一つずつ消えていく。空気が耳の奥で鳴り始める。重力の第二波だ。
セインは一歩、前へ出た。喉が乾いているのに、声は出る。
「まだ、終わってない」
ミリアは息を整え、祈りの手で自分の胸を叩いた。エリシアは剣を握り直し、足先で地面を二度、軽く蹴る。エルンはワイヤーを噛ませる位置を変え、陰の道を一本、心に引いた。トーマは盾を持ち直し、横に構えてから、ゆっくり正面へ戻した。
灰鴉の口元が、もう一度だけ笑った。
圧は、まだこれからだ。




