56話「雨の約束」—エリシアの原風景
白塔の外壁に風が当たって鳴いていた。雲間から降りてくる巨大艦の艦首、その先端に立つ男を見た瞬間、エリシアの胸の内側で何かがはじける。視界の縁がすぼみ、耳の奥に、遠い雨音が落ちてきた。
——時間が巻き戻る。
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あの頃、エリシアは八歳。土の匂いのする小さな農村で、父と母と、三人で暮らしていた。畑の畝を飛び越え、柵に登っては叱られ、夕暮れは必ず家の軒先で風鈴の音を聞いた。
父は剣の人だった。若い頃はオリハルコン級の冒険者、引退後は王国騎士団の団長まで務めたという。大きな掌で彼女の頭をわしゃわしゃとかき回しながら、木剣を握らせることがある。「腰を落とす。足で間合いを測れ。目は相手の剣じゃなくて、踵を見るんだ」
母は魔法の達人だった。指先で光玉を浮かべ、湯の温度を指先一つでぴたりと合わせ、夜になると燭台に火を点す前に、必ず一拍、呼吸を整えた。「唱える前に、まず世界のリズムを聞くの。魔法は力じゃなくて、拍と呼吸でできてる」
その日も暮れかかる頃、風鈴がからん、と短く鳴って止まった。次の瞬間、遠くで牛が鳴き、人の悲鳴が重なる。丘の上、村はずれの道に黒い旗が立った。脂のような光沢の布に、渇望の教団の紋。
父は一度だけ眉を寄せ、それからすぐに微笑んだ。「エリシア、台所の棚の下。いつもの場所だ。いいな?」
母は袖をまくり、緑の髪紐を結び直す。「大丈夫。すぐ終わらせるから。……ここで、静かに待っていなさい」
二人は勝てると確信していた。だからこそ、エリシアを安心させる声だった。エリシアは唇を噛みながら、離れの物陰に潜り込む。柱の隙間から、庭先と道がよく見える。
黒衣の群れが村に流れ込む。仮面、刃、鈍色の鎖。父は一歩、庭の中央へ。足が土を噛み、低い構えから剣先がわずかに揺れる。最前列のカルトが叫びながら突っ込んできた。
父の剣は音を置き去りにした。突きは喉を避けて肩を貫き、横薙ぎは膝裏を払う。倒れた者の刃は地に落ち、次の者は踏み込めない。二歩目で三人が土に転がり、四歩目で五人目の手首が宙を舞った。
母は庭の端で両手をすっとひらく。足元の土が盛り上がり、緑の蔓が爆ぜるように伸びた。蔓は刃の柄を絡め、足を絡め、纏めて地面へ引き落とす。倒れた上から透明な薄膜が降りて、呻き声を吸い込んだ。母は息を切らさない。目は優しく、動きは的確。高位の防御陣が屋根の上に張られ、飛び道具が次々と弾かれた。
「強い……」物陰のエリシアは目を輝かせた。父の剣筋は教わった通りの足。母の魔法は拍がぴたりと揃っている。怖さよりも、誇らしさが勝った。
そのときだ。空気が、沈んだ。
黒い影が、道の奥から歩いてくる。漆黒の重装鎧。胸に刻まれた堕獅子の紋。肩当ては角のように張り出し、動くたびに裂けた黒布のマントから灰が舞う。片手に巨大なタワーシールド、もう片手に、赤紫の脈がうっすら流れる幅広の両刃——灰喰らい。
灰鴉。グラン・レオニクス。
ただ歩いてくるだけで、泥がひび割れた。父が剣先をわずかに下げ、母が目を細める。
「まとめて来るなよ」父がぼそりと呟き、地を蹴る。踏み込み、鋭い突き。狙いは鎧の継ぎ目。
しかし、尖端が吸われた。灰鴉のタワーシールドが、まるで深い井戸のように衝撃を飲み込む。刃が止まる瞬間、盾の縁がわずかに回転し、父の剣を横へ撫で払った。体勢が崩れる。そこへ灰喰らいの平打ちが胸板に入った。鈍い骨の鳴る音。父が数歩、後退する。
母は息を合わせ、詠唱の拍をずらして雷霆を落とす。青白い柱が灰鴉を飲み込んだ——はずだった。灰喰らいが一度、空を裂くように振られる。雷は粉々になって、灰の粒となって雨のように散った。炎の球も、土の槍も、氷の杭も、すべて刃の軌跡に触れた瞬間、崩れていく。魔法がほどけて、形を失っていく。
「満ち足りた胃袋は——」灰鴉が初めて口を開いた。低い、乾いた声。「剣を鈍らせる。おまえたちは強い。だが、満ちている」
父は口元の血を拭き、笑った。「満ちてるかどうかは、剣先が知ってる」
左足が土を切り、下段からの斬り上げ。灰鴉は盾の面で受ける。金属が鳴る。父は剣を滑らせ、盾の縁を蹴り台にして跳ぶ。空中で体を捻り、背面から首筋へ一閃——届かない。灰鴉の腕が盾を背に回し、そこにも面があった。父の刃は再び吸われ、重さを奪われる。落下の瞬間、灰喰らいの柄頭が鳩尾に沈む。息が漏れる。
母は距離を取り、両腕を交差。結界が重なるように立ち上がり、父の前に壁を作る。灰鴉は一歩、歩を進めるだけで壁が軋む。刃が軽く払われるたび、結界は一枚ずつ灰になって剥がれた。
「下がって!」母が叫び、父の肩を引く。次の瞬間、灰喰らいの横薙ぎ。母が身を投げ出した。刃が肩口から背へ抜ける。鮮血が雨粒に混じって飛んだ。母の膝が地に落ちる。
「母さん!」物陰から飛び出しそうになったエリシアの口を、自分の手が塞ぐ。息が詰まる。涙が勝手にあふれる。
父はよろめきながらも前へ出る。剣が震えるほど強く握られている。灰鴉は退屈そうに首を傾げた。「まだ立つか」
「当たり前だ」父は一歩踏み込む。刃はもう真っ直ぐではなかった。灰鴉は盾をわずかに傾け、父の剣を奪う。手から抜けた鋼が土に落ちる音が、雨音に飲まれた。次の瞬間、盾の面打ちが横顔に直撃し、父が地に沈む。
雨が本降りになった。泥が足首を飲み、空と地の境が曖昧になる。灰鴉は一瞥を投げ、指を鳴らした。渇望の教団の残党が戦利品を漁りながら引いていく。彼は踵を返しかけ、ほんの一呼吸だけ、倒れた二人を見下ろした。口元が、野性味ある笑みにわずかに歪む。
「空腹は、長く効く」
彼は背を向けた。黒布のマントが雨をはじき、灰が薄く舞った。
エリシアは走った。泥に膝まで沈みながら、父と母の元へ。母は血に濡れた手で、震えながら彼女の髪紐を握らせる。緑色の布は、もう雨で重くなっていた。
「……泣いていい。でも——心を凍らせないで」母の声は細かった。「怒りは柄に縛って。刃は、冷たく」
父は片目を開け、にやりと笑う。「よく見てたな、エリシア。……剣は、守るために抜く。いつか、その剣で——生きろ」
言葉の最後は、雨に溶けた。二人の手から力が抜ける。風鈴が、からん、と鳴った。あの家の音が、ひどく遠かった。
エリシアは泣いた。喉が焼けるほど叫び、泥と血で顔をぐしゃぐしゃにして、髪紐をぐっと結び直した。小さな手が、鈴を握りしめる。雨が叩く。震えながら、彼女は口の中で言葉を形にした。
「……いつか、必ず、斬る」
復讐は、幼い誓いとなって骨に沈んだ。
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雨音が消える。戻ってきたのは、白塔の前、風の鳴る夜。艦首の上、漆黒の鎧、堕獅子の紋、灰喰らい。灰鴉。グラン・レオニクス。
エリシアの視界に、余計なものはもう無い。柄に指が食い込み、呼吸と拍がぴたりと揃う。四元素が柄から脈打ち、刃の周りに薄い風が巻いた。
隣でセインが短くうなずいた。ミリアの喉が、祈りの二音を乗せて震える。トーマが半歩、盾を前へ。エルンは影を薄くして、背中を取る角度を測る。
エリシアは一歩、前へ出た。雨は降っていないのに、頬に冷たいものが伝った気がした。父の言葉が、母の拍が、柄に縛りつけた怒りを冷たくしていく。
踏み込み。刃が、闇に白い線を引いた——。




