55話「白塔の外で」—渇望の旗影
「ごめんね。本当は、もう少し時間をあげたかった」
ヘルメスはいつもの軽い笑みを封じ、短い言葉だけ置いた。白塔の最上層。風が高くうねり、階下の訓練層の灯が一段ずつ落ちていく。
「来る。渇望の教団——暴食派だ。交渉はないと思っておいて」
静寂が一拍、みなを通り抜ける。
セインは頷いた。胸元の赤いペンダントが「トン、トン」と低く脈を打つ。体の奥で、ヴァルターの冷えとイフリートの熱が、ぎりぎり噛み合う。右手の親指で鍔を二度弾き、呼吸を整える——暴れない。借りるだけ。
ミリアは両手を胸に当て、短い祈りを一つ。唇の裏で旋律をほどく。風、水、光——必要な時に必要なだけ。第五階位の重さが喉の奥に宿るが、焦りではない。静かな火。
エリシアは鞘口に指をかけ、目を伏せた。四元素の“回路”が剣に通るのを確かめる。柄を握り直すたび、指先が熱を覚えていく。彼女の吐息は短く、鋭い。
トーマは〈錨盾〉の縁を撫で、肩紐をもう一段固く締めた。胸の棘は抜けない。むしろ、近づくほど疼く。——強さが欲しい。誰にも奪わせないだけの。黒い言葉が喉元まで上がる。四つ吸って、四つ吐く。数呼吸の儀で沈め、足を前に出す。
エルンはワイヤーの束を掌で重ね、毒針の封を指で確かめた。視線が風に溶ける。けれど、今は溶けない。立つべき場所に立つだけだ。
「外で待ち構える。白塔の結界、出た瞬間から自由落下の風だ。足元に気をつけて」ヘルメスが指を鳴らす。扉が開き、夜空が裂けた。
白塔の外は、一段濃い闇と塩の匂いだった。雲の底をこするように、低い唸りが広がる。はるか遠くに、黒い塊が見えた。最初は雲の影かと思ったが、違う。影は近づくにつれ、輪郭に“意思”を帯びる。
——船だ。空を滑る巨大戦艦。
艦首は海獣の顎骨のように反り、側面には紋章が刻まれている。飢えた口を模した双環——渇望の教団の印。甲板から吹き下ろす突風が、白塔の外縁にまで届いた。
「お出ましってわけだ」トーマが低く言った。声は平常。けれど、手の甲の血管が浮いている。
「来るなら、受けるだけだ」セインが言う。ペンダントが「トン」と一段深く鳴った。
艦首に、影が立った。風がひとつ止まり、月光が縁を撫でる。漆黒の重装鎧。鈍い黒鉄の面に、赤紫の脈が脈動している。肩当ては角のように棘を張り、裂けた黒布のマントが灰を散らす。胸には王冠を砕かれた獅子——堕獅子の紋章。
長身。分厚い胸板。両手に似合いすぎる、漆黒の大剣。血管のような赤紫の模様が刃を這い、振るたびに灰の粒が零れる。もう片方の腕には、ゴシックの塔を切り出したようなタワーシールド。中央の獅子面が月を噛む。
顔は鋭い鷹鼻に厚い眉。無精髭。髪は灰がかったダークブロンドのオールバック。笑っている。冷たく、野性の匂いがする笑いだ。
彼はただ立っているだけで、甲板の空気が重くなった。威圧じゃない。“飢え”が形になった感じ。見る者の胸から熱を食っていく。
「……灰鴉」
エリシアの声が、風にかき消されず残った。その名を口にした瞬間、彼女の頬から血の気が引く。次の瞬間、瞳に燃えるものが灯った。怒りと——憎しみ。こみ上げる吐き気を、剣の柄に預けて飲み込む。
セインは横目でエリシアの呼吸を見た。速い。けれど潰れていない。彼女は立っている。立ち続けるつもりだ。
「知ってる顔?」トーマが問いかける。声は低い。喉の奥で、別の声が囁く。(この男を斬ってみせろ。彼女の前で。そうすれば——)四つ吸って、四つ吐く。沈めろ。
エルンが一歩、前に出かけた足を止める。暗がりで目を細める。「……司教の、器の匂いがする」
「そう」ヘルメスが短く答えた。「派閥ごとに“司教”は一人。あの男は暴食の柱。名は——」
「灰鴉・レオニクス」エリシアが遮った。刃を握る手に力が入る。「あいつが……父さんと母さんを——」
言葉が、喉で切れた。記憶の匂いが鼻の奥で爆ぜる。焦げた鉄。血潮。庭の土。あの夜、雨。灰鴉の笑い声。——全部、今この風に重なった。
艦首の男——灰鴉は、白塔の縁に立つ五人を見渡した。日焼けした皮膚に刻まれた古傷が月明かりに浮く。獲物を選ぶ鷹の目。彼は大剣の切っ先をわずかに持ち上げ、白塔の尖端に“挨拶”のように触れた。火花が散る。塔の石が、刃の震えだけで“へこむ”。
「——随分と、良い匂いがする」
灰鴉の声は低く、喉の奥で笑いが絡む。「鍛えた肉の匂い。飢えた心の匂い。……それに」
彼の視線が、エリシアの喉元に刺さる。「昔の縁の匂い」
ミリアが半歩前に出た。祈りが無意識に指に集まる。冷たい怒りが胸の奥で固まるのを、自分で掴み直す。「……下がって」
セインは一度だけヘルメスを見る。頷きが返る。戦う。逃げ場はない。ここで受け止めるしかない。
灰鴉は盾の縁で甲板を叩いた。鈍い音が空に広がる。「ここで降ろす。腹は——」
その言葉を、エリシアの声が裂いた。
「灰鴉——ッ!!」
剣の柄に白い指が食い込み、四元素の気配が一瞬で彼女の身体を駆け上がる。白塔の外縁、風が一段重く沈んだ。戦いが、始まる。……




