54話「白塔訓練録」—上へ備える一ヶ月
白塔は、外から見るよりずっと広かった。扉ごとに空気の密度が違い、踏み込むたび世界が切り替わる。ヘルメスは簡潔に言った。
「扉の向こうは君たち専用の訓練層だ。目的は一つ——“今のままの自分”を壊して、次に進め」
冗談めかした笑みの下に差し込む影。その緊迫が、五人の背筋を伸ばさせた。
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最初の一週間は、ただ長かった。
セインの層は、音のない石庭だった。白砂の上に黒い柱がいくつも立ち、柱と柱の間に、赤と青の温度が揺れる。胸元のペンダントが小さく鳴り、目の前に二つの影が“形”を持った。
一人は氷のように静かな男。ヴァルターの残滓は眼光だけで体温を下げる。もう一人は煤で縁取られた巨影。イフリートの炎が指先で揺れている。
「借りるだけにしておけ」ヴァルターの声はいつも通り冷たい。
「燃やせ。怒りは燃料だ」炎王の声は耳ではなく骨に響く。
両極が、同じ場所に立っていた。セインは剣を抜く。砂が柔らかく音を立て、熱と冷の層が肌の上でずれる。刃を振るうたび、赤と青が入れ替わる。足場がガラスのように光り、掌に汗が滲む。
“止めるんじゃない、重ねる”
胸の奥でペンダントの鼓動と庭の“拍”を合わせる。一拍ずらして、同拍で重ねて、また外す。繰り返し。繰り返し。焦り、熱、昂ぶりが喉までせり上がったとき、セインは自分に合図を打つ——右手の親指で鍔を軽く二度、弾く。すると、血の熱が落ちる。呼吸が戻る。暴走に踏み込む寸前の“自分停止のスイッチ”を、体に覚え込ませていく。
「拍の誤差、零点に寄ったな」ヴァルターが短く言う。
イフリートは鼻で笑った。「もっと燃える。だが、それでいい」
二週目の終わり、セインは刃に薄く温度の層を載せることができるようになった。切っ先だけを一瞬熱くして装甲を撓ませ、次の瞬間には冷やして脆さを作る。大仰な炎ではない。だが“通る”。
——そして、ミリアが合図をくれたなら止まれる。自分の中で、その前提が揺るぎなく根付いた。
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ミリアの層は、音の部屋だった。壁も天井もない、見えない空間に七色の糸が張り巡らされている。ヘルメスは微笑むだけで、口出しはしない。
ミリアは目を閉じた。祈りと歌は、似ているようで違う。祈りは自分の内側に潜る。歌は外の世界と繋ぐ。初日はそれだけを繰り返した。呼吸、心拍、足裏の温度。小さな声で唇を湿らせ、指先で空気を撫でる。
「……来て」
言葉も詠唱もいらない。ただ、言葉にならない願いを“形”にする。掌に灯った小さな火が、驚くほど素直についてきた。次に水。風。土。雷。光。闇。祈れば、来る。けれど、出力を上げるほど反動が強く、喉の奥に鉄の味が残る。
歌は違った。旋律の端をつまみ、二音で心拍を揃える。三音で筋肉を温め、四音で痛みを鈍らせる。癒し、身体強化、妨害、察知——神術の「はじめの四つ」は、今までより深く、長く届くようになっていく。出力は割合で言えば“十分の一”。けれど、確かに伸びた。
何度も何度も繰り返すうち、ふと、セインの“拍”が胸に触れた。遠くで鳴る太鼓のような、重なる瞬間。ミリアは一拍遅れて合図を返す——“今”。その短い呼吸の交換ができるようになったとき、唇に笑みが戻った。
「……いける」
五週目、ミリアは祈りによる魔法を第五階位まで立ち上げることに成功する。燃費は悪い。連発はできない。けれど、いざという時の“切り札”に、ようやく指が届いた。
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トーマの層は、灰色の地平だった。朝も夜もなく、無数の魔物の影が遠くから押し寄せては消える。寝食の時間以外、ずっと戦う。盾を立て、押し、受け流し、踏み割る。
嫉妬と劣等の棘は抜けない。むしろ、戦うほど鋭くなる。セインとエリシアの背中が頭に浮かんでは、腹の底を焦がす。エリシアの笑み。セインの横顔。全部、胸の奥で燃える材料になっていく。
「押し返せ」自分の声が、今は前へ押す。「前は俺の場所だろ」
〈斜面盾〉で熱や衝撃をいなす。その延長線で、盾の縁を構造に噛ませ、荷重を肩と脚で受ける〈錨盾〉を磨き続ける。床が軋み、足の裏が焼けるように痛んでも、下がらない。
ある日、群れの先頭の獣を押し潰した瞬間、全身に電気が走った。押圧、踏み込み、体重移動。直線に並んだ敵が、一本の線ごと折れた。踏み割りの感覚——クラッシュ・ラインの“芯”を掴んだのだ。
同時に、胸の棘が疼く。怒りに飲まれそうになったとき、トーマは深く息を吸った。四つ数えて吸い、四つ数えて吐く。数呼吸の儀。それだけで、刃は鞘に戻る。
強くなりたい。誰よりも。美談なんてどうでもいい——そんな黒い本音を、自分で認めた。だからこそ、制御する。前に進むために。
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エリシアの層は、二つの課題から始まった。
一つは、魔法耐性持ちの魔物を「木の棒+魔法のみ」で倒すこと。最初は笑っていた。だが一分後には笑えなくなった。火は弾かれ、水は滑る。雷は散り、風は薄い。——通らない。
「通らないなら、通る“筋”を探せばいい」
彼女は棒を杖のように構え、魔法を“筋”に沿わせて通した。風で間合いをつくり、雷で痺れの隙を作り、火の圧で動きを押し、最後に氷で関節を縫い止める。魔法は力ではなく、回路だ。棒先の数センチにしか通らない細い回路でも、通れば関節は止まる。魔物は、やがて崩れた。
二つ目は、ダイヤモンドゴーレムを「剣+第二階位の魔法のみ」で倒すこと。硬い。刃が跳ねる。第二階位は軽い。重さが足りない。ならば——何度も何度も素振りを繰り返し、剣の“受け流し”に第二階位の“回路差し替え”を重ねる。硬い装甲の“縫目”に、最短距離で風を流し込み、衝撃を逃がす。圧を火で上げ、膝だけを氷で固める。倒れた瞬間、汗で濡れた前髪をかき上げながら、エリシアは初めて心の底から笑った。
「……やれる」
四元素の瞬間纏装は、もはや反射だった。構え、踏み込み、纏装、切断——“剣=回路”が体に定着していく。
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エルンの層は、薄暗い路地の連続だった。匂いが強く、音が多い。視線が交差し、足音が絡む。彼はまず、自分の輪郭を消すことから始めた。
心拍を落とし、足の指に重心を落とし、体温の放射を薄くする。視線の通り道を読む。背骨に沿わせた細いワイヤーを一息で投げ、角に引っ掛ける。音を立てずに距離を詰め、喉元に刃ではなく“気配”だけを置いて、獲物の選択肢を奪う。
毒の耐性も付けた。少量を舌下に、発汗のタイミングを記録する。目眩の波を数えて、頭の中に“警告のランプ”を灯す。自分の身体を、自分でユーザーとして扱う感覚が、生々しく根付く。
夜、訓練を終えるたび、エルンは手の甲を見つめた。そこに、兄の血はもうない。なのに、匂いだけが鼻の裏に残っている気がする。だからこそ、彼は言葉にした。
「俺は救える相手を救う。殺すのは、その先だ」
声に出しておく。それが、影に呑まれないための、自分の“基準”になった。
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一ヶ月が過ぎた。五人は、似合わないほど静かだった。立ち姿が変わり、目の奥が別の風景を映している。沈黙の中に合図があり、合図の中に言葉があった。互いの距離が、半歩ずつ縮まっているのがわかる。
ヘルメスは最上層のバルコニーに彼らを呼び、夜空を見上げた。雲が薄く、星の筋が白塔の尖塔を撫でていく。
「本当なら、もう一ヶ月やらせたかった。けれど——」
風が、言葉を連れてくる。
「白塔の位置を、カルトに嗅ぎつけられた。猶予はない」
セインは頷き、ペンダントを握りしめた。赤い石は小さく脈を打つ。ヴァルターの冷とイフリートの熱が、右腕の奥で静かに重なった。
ミリアは指先を胸に当て、深呼吸を一つした。祈れば来る。歌えば届く。けれど出力はまだ十分の一。無駄に打たない。必要な時に、必要なだけ。彼女の中の“秤”が、ようやく形になっている。
トーマは盾の縁を撫でた。金属の冷たさの向こうに、掌の熱が残る。嫉妬も劣等も、消えていない。むしろ濃くなった。でも、それでいい。黒い動機ごと、前に押し出す。
エリシアは柄を握り、空を切った。四元素は呼べば来る。回路は剣の中にある。筋を通せば、通る。彼女の足取りは軽いが、着地点は重い。
エルンはワイヤーを巻き取り、視線を遠くへ飛ばした。風に溶けるのは得意だ。だが、今は溶けない。立つべき場所に、立つ。
五人の視線が交わったとき、白塔の灯が一段、低くなった。嵐の前に似た静けさが、塔の内側まで満ちる。
——その頃、誰も知らない高空のもっと向こう。
雲と雲の谷間を滑る、黒い影があった。甲板側面には、渇望の教団の紋章。海獣の顎骨を思わせる巨大戦艦は、雲を押し分け、音もなく進む。
白塔を探す目は、既に空を掃いていた。




