53話「白塔の宣告」
白塔の静けさは、街の喧噪とは別の音で満ちている。鼓動のない、ただ“高い”だけの静寂。吹き抜けの天井を支える白い柱は、夜の色を吸って青みを帯び、床の大理石は微かな星の反射を溜め込んでいた。
ヘルメスは手すりにもたれ、下の階に落ちる螺旋の影を見下ろしていた。細い銀糸のような光が彼の指先から垂れ、ひと筆のように空中へ文字を描く。触れれば消える、神々の文様。
「続けよう」
それだけで空気が張り詰める。見上げた四人と一人が、無意識に呼吸を合わせた。
「まず、覚えておいてほしいことがある。これから先、君たちの前に“名”だけで戦況を塗り替える連中が現れる。——彼らの名を聞いたら、勝てると確信するまで戦わないこと。撤退は恥ではない。死ねば何も残らない」
セインは顎を引き、真っ直ぐに相手の目を捉えた。「名前を」
「七つ。」
ヘルメスは一本ずつ指を立てていく。声は淡々としているのに、名を置くたび塔の温度がほんの少し下がった気がした。
「死王ジャンヌ・ダルク。——死の行進は彼女の歩幅で始まる。
天魔王サー・ランスロット。——騎士道をねじ曲げ、秩序そのものを壊す剣。
災害王ヴラド。——街を簡単に消す吸血の王。
狂獣王ロビンフッド。——彼が現れた証拠は分かりやすい。全てがなくなるから。
魔海王ネプチューン。——攻められた都市は一晩で海の底にある。
残虐王ユリウス・カエサル。——彼の特徴は圧倒的な程の軍勢の多さ。勝利が義になる世界に連れてくる
そして、アフロディテ。——肩書きは不要だ。愛が憎しみに転じる速度を知っているものは、その名に触れただけで手を離す」
ミリアが小さく息を飲む音がした。彼女の指先が、ローブの裾をきゅっとつまむ。エリシアの横顔は短く強張った。海底帝国で見た渦と、あの黒い封蝋の印——嫌でも脳裏に重なる。
「ネプチューンとアフロディテは、元は神界の側だった」ヘルメスは続けた。「ネプチューンは七大神のひとり、ポセイドンの“右腕”。アフロディテはかつての最高神の一柱。光から転じた闇は、ただ黒いより深い。彼らは神々の言葉を理解し、神々の隙も知っている」
トーマは唇の裏をかんだ。そんな化け物共を前に“守る”なんてできるのか、と喉の奥が乾く。すぐ後ろでエリシアの衣擦れがしただけで、胸の棘が疼く自分が嫌だった。守りたいのは彼女一人じゃないはずなのに、意識はどうしても一人の横顔へ寄っていく。
「頭に叩き込んだわ」エリシアが短く言う。声は凛としているのに、指先はほんのわずか震えていた。
「——じゃあ聞くけど」セインが口を開いた。「俺たちがこれから向かう場所に、そいつらがいたら?」
「逃げろ」ヘルメスは即答した。「戦いを選ぶのは勇気、選ばないのも勇気だ。君たちは“鍵”だ。鍵が折れれば扉も開かない」
鍵。胸元のペンダントが、掌の熱に静かに応じる。セインは思わず握り直した。英雄王の血脈だとか、万物を閉じ込めるだとか——昨日までの自分には冗談にしか聞こえなかった言葉が、いまは重さを持って鎖骨の上に乗っている。重いけれど、落としたくない重さだ。
「……それで、俺たちはどうなる?」エルンが低い声で問う。目の下の影は薄くない。兄を喪った夜の色を、まだ瞳が離さない。
「鍛える」ヘルメスは手すりから背を離し、手の中の銀糸をぱち、と弾いた。真空に散った光が、五枚の扉を描いて壁に貼り付く。扉は実際にはそこにない。なのに、確かに“在る”。
「ここ、白塔でね。君たちはそれぞれ違う器、違う“拍”でできている。だから同じ稽古はしない。一人に一つの試練だ」
五枚の扉は、どれも形が違った。
一枚は赤い。炎の地図のような紋様がゆっくりと流れ、扉の縁で微細な刻印が“チ、チ”と刻むように光る。時間と熱が混ざり合って、見ているだけで額に汗がにじむ。
「セイン。君はそれだ。ペンダントの中身と向き合う時間が来た。ヴァルターの“冷たい強さ”、イフリートの“熱”。それを借りるのか、噛み砕くのか。——暴走しない“持ち方”を覚える」
別の扉は、聖堂のステンドグラスを閉じ込めたみたいに透明だった。色の筋が光の角度で旋律に変わり、耳の奥がくすぐったくなる。
「ミリア。祈りと歌、二つの翼を同じ高さで広げる。君は無詠唱で魔法を起こせるが、それは“導管が開いている”からに過ぎない。本当に開くべきは——」ヘルメスは胸に掌を当てた。「ここ。神力は、願いの形をして出てくるはずだ」
トーマの前の扉は、鉄の匂いがした。打ちつけられた傷が無数に走り、表面は何度も熱を受けた剣の肌のように波打っている。重い。見ているだけで肩が張る。
「トーマ。君は“守る<だけ>”から卒業する。盾は防ぐためだけじゃない。道を作るためにもある。そのために誰よりも辛く血の匂いしかしない修行となる。その胸の棘を攻めるための力を変えるために」
胸が、ぎくりと跳ねた。図星なのだ。嫌になるほど。——守りたい。けれど同時に、誰にも負けたくない。誰にも、彼女を渡したくない。目を逸らしたい衝動と、逸らしたくない執着が、喉で絡む。
エリシアの扉は、薄い鋼の輪が幾重にも浮かび、そこへ細い光が流れ込み続けていた。剣の回路——彼女自身が先日の戦いで掴みかけた概念が、そのまま扉になっている。
「エリシア。君は剣を回路に、魔法を電流に。耐性の壁に頭を打つだろうが、そのたび回路を組み替えればいい。階位が低くても敵を落とせる“筋”を体で覚える」
最後の扉は、どこまでも薄かった。色も匂いもなく、あまりにも“無”。角度を変えると、輪郭が消える。その手前に立つだけで、自分の呼吸が邪魔になる。
「エルン。君には“消える”ことを教える。気配、音、匂い、存在の縫い目——全部、意識して消す。毒も喰え。刃に触れる指を鍛えろ。救出か、暗殺かを一瞬で選べる目を作る」
エルンは静かに頷いた。兄の名を口にしないまま、拳を握り、開く。開いた掌の震えは、もう隠さない。隠したところで、無くなるわけじゃないのだから。
「期間は?」セインが問う。
「本当は一年ほしい」ヘルメスは肩をすくめた。「けど、そんな猶予はない。それでもやる。ここでやらなければ、二つの鍵はただの飾りになる」
塔の外で、風が変わった。雲の流れがひと筋、塔の周りを巻く。遠い雷の光が、白い壁に薄く走る。
「……俺はやるよ」セインが言った。自分の声がいつもより低く聞こえる。怖くないといえば嘘になる。けれど、引き返す道のほうが遠いことを、もう知ってしまった。
「私も行く」ミリア。声は柔らかいが、芯があった。「私がやらなきゃいけないことがあるって、やっとわかった気がする」
エリシアは短剣の柄に触れ、笑った。「遠回りは好きじゃないの。最短で強くなれるなら、血の匂いがしても構わない」
トーマは一度、天井を見上げる。そこに答えはない。目を下ろすと、エリシアがこちらをまっすぐに見返すのに出会う。胸が痛い。けれど、笑った。
「俺も行く。守るために、じゃない。——奪い返すためにだ」
ヘルメスは小さく満足げに目を細めると、五枚の扉の前にそれぞれ灯をともした。色は違うのに、温度は同じ。不思議な灯。
「今夜はここまで。扉は君たちの拍でしか開かない。焦らなくていい、けど躊躇うな」
散る前の花火みたいに、さっと彼の姿が淡くなって、白い空気に溶けた。
静寂が戻る。けれど、さっきまでと違う。沈黙の底に、微かな脈が五つ——それぞれの胸と、扉の向こうから響く。
セインは赤の扉に掌を当てた。熱は——怖い。でも、温かさとして握りしめられるなら、怖くない。
ミリアはステンドの扉の前で、息を一つ整えた。心の中で、まだ名前のない祈りを作る。歌わない歌の枠を、そっとなぞる。
トーマは鉄の匂いを吸い込み、吐いた。火傷の跡みたいな棘を、指の腹で確かめる。痛みは、消さなくていい。使えばいい。
エリシアは輪の“継ぎ目”に目を落とし、微笑んだ。剣は回路。回路はつながる。切れても繋ぎ直すだけ。
エルンは無色の扉の前で、呼吸を数える。四で吸い、七で止め、八で吐く。形だけの落ち着きではない、本物の無音を喉奥に作る。
五つの掌が、ほぼ同時に扉へ触れた。
塔の上で、遠い雷が小さく鳴った。空はまだ夜の底だ。けれど、誰もその暗さを怖いとは思わなかった。
明かりは、もう中にある。




