51話「白塔の主」—渡りの間にて
ホテルの扉ノブを回した瞬間、蝶番の向こうが白く溶けた。ふわりと風が逆さに吹きこみ、足を踏み出した先は無音の回廊だった。壁も天井も硝子みたいに薄い光を帯び、歩くたび、足もとの紋様が赤く息をする。
セインの胸元で、赤いペンダントが低く脈打つ。鼓動に合わせ、床の文様がほんの一瞬だけ濃く灯った。——鍵が選んだ扉だ。起点はやはり、これ。
回廊は長く見えて、二歩で尽きた。最上層の円形の間に出る。中央に白い卓、その縁に杖を立てかける旅人姿のヘルメスがこちらを見て、口元だけで笑う。
「早かったね」
昨夜、天蓋の上で出会ったその声だ。ヘルメスは杖の先で床を軽く叩く。文様が輪を描いて広がり、白塔の空気が少しだけ柔らぐ。
「塔の三則。ひとつ、ここで刃は交えない。ふたつ、ここで嘘はつかない。みっつ、ここで“名”は軽く呼ばない。名は縁を呼び、その縁は時に扉より強いから」
トーマが反射で盾の縁に触れかけ、手を引っこめた。ヘルメスは目だけで「良い子」とでも言うように微笑む。
ミリアはそっと息を吸い、視線を天井に上げた。何もないのに、喉の奥で旋律が勝手に整いはじめる。祈れば寄ってくる——ここの空気は、それを助ける。
エリシアは一歩だけ前へ。旅人の軽さの奥に、刃物の温度があるのを嗅ぎ取っている。指先が剣の柄を求めかけ、塔の三則を思い出して静かに下ろした。
エルンは壁の角度、柱の隙間、出口の数を数える。ヘルメスの足運びには音がない。暗殺者として、その無音に目が止まった。
ヘルメスは卓の縁に腰を軽く預け、視線だけで一同を見渡す。
「手短に核心から。——各地で魔神の封印の継ぎ目が軋みはじめている。きっかけは、人の負の感情を煽って集める者たち……君たちの言う〈カルト〉だ。欲と憎しみは、封印にとって最高の栄養になる」
円間の床が静かに変わる。白石の下を何かが流れ、薄い影絵が立ちのぼる。オークションの喧騒、鏡の迷宮、黒い仮面。見覚えのある光景が、色を持たないまま結ばれていく。
「封じられている相手は誰か。名を挙げよう」
声がわずかに低くなる。
「憤怒——サタネグラス。傲慢——ルシフェレイン。嫉妬——レヴィアティア。暴食——ベルゼバス。怠惰——ベルフェナス。強欲——マモルギア。色欲——アスモリーナ。七つの魔神だ」
呼ばれた名が、空気の中に重石のように沈む。セインは無意識にペンダントを握った。赤い石の奥で、熱が一拍だけ強くなる。
「彼らは“災害”じゃない。意思だ。奪い、蝕み、増殖する悪意そのもの。かつて、数え切れない神々と、少数の人間が戦いを挑んだ。勝てなかった。だから——封じた。大戦の名は、ラグナロク」
ミリアのまぶたが揺れる。言葉にしない祈りが喉に生まれ、すぐ消えた。ラグナロク——その音だけで、胸の奥の何かがきしむ。
「神々は封印に多くの力を費やした。だから、いまは直接手を下せない。力を出せば、封の片方が薄くなる。……だから“人”に託す」
トーマはその一言に、胸の奥がざわついた。人に託す。圧倒的な力が必要になる。誰にも奪わせない力。喉の奥で古い棘が、寝返りを打つ。
(欲しいのは、圧倒的な力だ。守るため、そう言えばきれいに聞こえる。でも——)
心臓の音が一瞬強くなり、トーマは浅い呼吸を押しとどめた。今は聞く時だ。顔に出すな。誰にも見せるな。
ヘルメスは目線だけをセインの胸元に落とし、指先で空をなぞる。
「そのペンダントは、道の“起点”。閉じ、開き、繋ぐ。いい選び方をしている。世界を救う力だ……が、扱い方を間違えれば、世界ごと滅ぼしうるものにもなる」
セインは言葉を失った。重さはあるのに、手のひらにあるものはたったの小石だ。ヒトはこんな小さなものに、いくつ世界を預けようとしている?
「骨組みだけ、今は覚えて。詳細は順に渡す」
杖の石突きが床を軽く叩く。円卓の周囲に七つの影が浮かび、うち二つ——ひとつは赤く、ひとつは鈍く金に——微かに瞬いた。
「最近、ここが強く脈動した。憤怒と、強欲。君たちが踏んだ路が、確かに世界に刻まれている。……その足跡の先で、封は薄くなる」
エリシアが小さく息を呑む。軽い冗談のようでいて、ヘルメスは一言も無駄にしない。笑みの下に刃——だからこそ、信用できる。
エルンは黙って頷いた。“ここで嘘はつかない”と言った場所で、嘘の匂いはしない。名を呼ぶことの危うさを語る口振りにも、手練れの気配があった。足音のない歩き方——なぜだろう、兄を思い出す。すぐ胸の奥で打ち消す。
ミリアはセインの横顔をそっと見た。彼の指が、ペンダントに自然と合わせた拍で触れている。あの“同拍”の感覚を、体が覚え始めている。時を止めるのではなく、重ねる。言葉にするには、まだ怖い。
セインは視線を上げ、短く問う。
「……俺たちは、どう動けばいい?」
「“どう封じ、誰が担うのか”。それを知ることが先決だ」
ヘルメスが円間の壁に手をかざす。白い石が黒に返り、影絵が浮かぶ。炎と氷、折れた槍、吼える獣、沈む都。あらゆる時代の戦いが、一枚の幕に縫い合わさって揺れている。
「話の続きは、影絵の向こうで」
彼は肩をすくめ、子どもを遊びに誘うみたいな調子で笑った。
「緊張しすぎないこと。ここでは、息をするように真剣でいてくれれば、それでいい」
セインはペンダントを握り直した。赤い石は、熱ではなく温度で応えた。ミリアが横に立つ気配。エリシアは視線を前に固定し、トーマは肩の力を抜くふりをして、足の裏で体重をわずかにずらす。エルンは出口の位置を目に焼き付けた。
影絵の戦場で、風が吹いたように見えた。
白塔の天井は、音のないまま、少しだけ高くなった気がした。




