50話「白塔の鍵」
花火の夜が明けると、セレスティアの朝は驚くほど澄んでいた。雲を縫う空橋の向こうで鐘が一つ鳴り、風見の羽がかすかに鳴る。ホテルのテラスで朝食をとりながら、セインは温いマグを両手で包み、昨夜の光の尾を思い出していた。
ミリアは窓辺で外の風を感じている。小さく鼻歌のように旋律を刻んで、欠けた睡眠をやんわり補うみたいに。エルンは壁にもたれて新聞をめくるふりをしつつ、視線は出入口や廊下へ。癖になった警戒は休まない。
トーマは珍しく落ち着きがない。椅子を引いて立ったり座ったり、そのたびに鎧のバックルがかちゃりと鳴った。視線は、向かいで髪を結い直すエリシアへ吸い寄せられては、すぐ逃げる。
「……ちょっと、外の風、吸ってくる」
エリシアが縁側に立つ。トーマは思わず手を挙げた。
「俺も行く。話、ある」
セインが目だけで「行ってこい」と合図すると、トーマはごくりと喉を鳴らして後を追った。
テラスの階段を降りると、ホテルの裏手は白い石畳の小さな庭になっている。雲の切れ間から斜めに陽が差し、空の青が足元に流れ込む。エリシアが手すりに肘を置き、振り向いた。
「で、話って?」
「えっと、その……」
胸が焼ける。言葉がうまく並ばない。内側で、もう一人の自分が冷ややかに笑った。
(やめとけよ。どうせセインだ。あいつと並ぶと、お前は“盾”にしか見えない)
違う、と奥歯で噛みつぶして、トーマは顔を上げる。
「ありがとな、昨日。風灯塔で。お前の剣が道、作ってくれたから」
「礼を言うのはこっち。あなたの盾がなかったら、誰も上に届かなかった」
「いや、でも、その……」
言葉が喉で絡まる。熱が耳まで上がり、視界の端で昨夜の花火がもう一度弾ける。エリシアの横顔が、あの光と同じ色に見えてしまって、息が詰まった。
「俺さ……」
ここで言うんだ、と決めたのに、声が急に情けなく小さくなる。
「俺、もっと強くなる。守るとか、そういうのだけじゃなくて――ちゃんと前で戦えるくらい。だから、その……変なこと言ったな。忘れてくれ」
自嘲気味の笑いにすり替える。背中の汗が冷え、指が震える。エリシアは少しだけ目を細めた。何かを察した空気が、風のように一瞬だけ触れて、すぐに離れる。
「……うん。期待してる、トーマ」
淡い返事。重くない。それでも胸のどこかに灯が残る。トーマは顔を背け、拳を握った。自分の負け癖の声が遠のくまで、指の骨がきしむほど強く。
部屋へ戻ると、ミリアが短い旋律を口ずさみながら、セインのマントのほつれを直していた。
「直った。……少し、楽になる歌。疲れ、残ってるでしょう?」
「助かる。昨日は……色々、詰め込んだ気がする」
セインが肩を回すと、ペンダントが衣の下で軽く鳴った。いつもと違う、金属とは思えない柔らかい感触が指に触れる。
「……あれ?」
手を突っ込むと、知らない鍵が出てきた。白銀に薄く金の縁、歯は奇妙な幾何。握れば冷たさの奥に、風みたいな躍動がある。
「入ってたの?」ミリアが目を瞬く。「いつから?」
「わからない。昨夜……ヘルメスが来た、あのあとか」
鍵の根元には小さな刻印があった。翼のサンダルと杖、そして一行の文字。
――どの扉も、門となる。
エルンが身を乗り出す。
「試すか?」
「試す」セインは即答した。「行き先は、白塔だろ」
部屋割りは昨夜のまま。廊下の突き当たり、空に面した客室の扉が一つ空いている。セインが鍵を持ち、四人が後ろに並ぶ。トーマは一歩だけ遅れて、エリシアの背に並ぶ位置を選んだ。肩越しに彼女の髪が風にそよぐ。胸の鼓動は重いが、さっきより逃げ腰ではない。
「準備は?」セインが振り返る。
「いつでも」エルンが頷く。
「……歌、少し」ミリアが小さくささやき、祈るように息を整えた。音にならない歌が空気に溶け、肌の表面がすっと軽くなる。
「じゃ、行く」
鍵を差し込む。鍵穴のほうから、そっと鍵を迎え入れるような反応があった。回す。カチリ、と音がひとつ鳴り、扉の隙間から白い粒子が漏れだす。風だ。けれど冷たくない。光の粉が渦を巻いて、扉の内側にらせんの道を描く。
ミリアが息を呑む。エルンが無意識に腰の装具へ手をやる。エリシアは剣の柄に触れてから、ふと手を離した。ここは敵地ではない、と直感が告げているらしい。トーマは知らず、深く息を吸った。胸の棘は消えていない。けれど、目の前の光は、それでも前に進めと言っている。
「セイン」
ミリアが呼ぶ。セインは顔だけで振り返った。
「うん」
「……大丈夫。ついていく」
「ああ。頼りにしてる」
短い言葉が、やけに遠くまで届いた気がした。
セインが扉を押す。光が一段濃くなり、白いらせんが廊下へ溢れだす。床の絨毯に落ちた粒子が、すぐに消える。境界線の向こうに、別の白がある。塔の壁だ。どこまでも高く、どこまでも静かな白が、呼吸を忘れさせる。
「行こう」
先に足を踏み入れたのはセイン。続いてミリア、エリシア、エルン。最後にトーマが振り返ると、窓の向こうのセレスティアの空が、わずかに揺れて見えた。昨夜の花火の残光はもうない。代わりに、自分で燃やすべき火が胸に灯っている。
「……待ってろよ、もっと強くなるから」
誰に聞かせるでもなく呟いて、彼もまた光の中へ踏み込んだ。
扉が閉じる直前、鍵の歯がひとりでに逆回転した。空気が軽く反転し、ホテルの廊下には風鈴みたいな小さな音だけが残る。白い光が視界を満たし——物語は、塔の内部で再び動き出す。




