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49話「天空花火、君の横顔」



雲の縁を抜けた瞬間、空の色が変わった。昼の青に銀の粉を散らしたみたいな、軽い空気。セレスティア外縁。梯子のような風道を越え、五人は外縁リングの宿街へと降り立った。


「まずは落ち着こう。宿を取る」セインが振り返る。長旅の汗が風で冷え、髪先が頬に貼りついている。


通されたのは、天頂に向かって広がる三角屋根のホテルだった。ガラスの庇に風鈴が並び、鳴り方で風の段を知らせてくれるという。ロビーの香りは雲蜜の甘さと、磨かれた木の匂い。


「男性のお客様はこちら、女性のお客様はこちらでお部屋をご用意できます」受付の女性が微笑んだあと、手元の掲示板を指す。「それから……今夜は“天空花火”の開催日です。当ホテルの屋上庭園から、とてもよくご覧いただけます」


「天空花火?」エリシアの目がぱっと明るくなる。戦場では見せない、年相応の表情だ。


「はい。気流を使って花火玉を上空まで運び、そこから逆滝の上で開花させるんです。よろしければ浴衣の貸し出しもございますよ」


「浴衣!」エリシアが思わず身を乗り出した。「着てみたい。……って、私、柄にもないか」


ミリアがふっと笑う。「似合うと思う。風の色、あなたに合ってる」


エリシアは照れ隠しに喉を鳴らし、視線を逸らした。「じゃ、じゃあ、せっかくだし」


部屋割りは自然に決まった。セインとトーマ、エルンが男部屋。ミリアとエリシアが女部屋。各々、荷を解き、体を拭き、靴を替える。窓を開ければ、すでに空の高みで台船がゆっくり位置取りしているのが見えた。


夜の訪れは高所ほど速い。集合はロビー前、と約束し、各々階段を降りる。最初に現れたのはミリアだった。薄青の浴衣に白の帯。髪は耳のあたりで緩く結い、うなじに月の光が触れている。足袋の白が目に涼しい。


「どう、変じゃない?」ミリアが恐る恐る問うと、セインは少しだけ目を見開いて、短く首を振った。「きれいだ」


その二文字が、彼にしては珍しく迷いなく落ちる。ミリアの耳が熱を帯び、視線が泳いだ。


階段の上から、軽い足音。エリシアが現れる。白を基調とした花柄の浴衣。帯は薄い橙で、結び目から短い紐飾りが揺れている。いつもの鋭さが布のやわらかさに和らいで、瞳だけが狩人のように澄んでいた。


トーマは、一瞬、息を忘れた。胸の奥で何かが膨らんで、言葉が喉で破裂しそうになる。


(……きれい、なんて。今さらかよ)


代わりに出たのは、仕上がりの悪い冗談だった。「動きにくかったら、俺の肩貸すからさ」


エリシアは鼻で笑って、帯の端を指で弾いた。「大丈夫。これ、走れる」


本当に走りかねない口ぶりに、皆が笑った。エルンは苦笑いで肩をすくめる。「じゃ、行こうか。屋上は混むだろ」


屋上庭園は市の灯りが見渡せる高さにあった。風を読むための帆布の旗が立ち、柵の向こうに逆滝の白が見える。花火船の灯が遠くの空に浮かび、観客のざわめきが薄く重なる。


最初の一発は音が遅れてやってくる。夜空に白い花が開き、その中心に金が刺さる。遅れて、どん、と体の芯に来る低音。次々に色が変わり、花が重なっていく。風が運ぶ火薬の匂い。目を奪う光の梯子。


挿絵(By みてみん)


セインは無言で見上げていた。横でミリアが、数を数えるみたいに小さく息を合わせている。花が開くたび、彼女の睫が微かに震え、口元が解ける。その横顔を一度だけ盗み見て、彼はすぐに空へ目を戻した。


エルンは手摺にもたれて、顎を上げた。「上に上がる花、下りてくる星、って感じだな」


「そうだな」セインが相槌を打つ。


トーマは、花火を見ていなかった。見ていたのは、エリシアの横顔だった。花火の白に、横顔の輪郭がしゃんと浮く。帯から垂れた紐が風に揺れ、耳のあたりで光が跳ねる。彼女は片手で髪を押さえ、目を細めた。普段の鋭さとは違う、無防備な綺麗さ。胸の棘が、音もなく深く刺さった。


挿絵(By みてみん)


(欲しい)


自分の中で、壊れた言葉が繰り返す。頭の裏側で、誰かの声が混ざる。いや、誰かじゃない。自分だ。あの緑の女の甘いささやきでも、ヴァイスの指の記憶でもなく、トーマ自身の声だ。


(俺が守ってきたのは、何のためだ。盾だ。踏ん張る柱だ。だけど――それだけじゃ、足りない。横に立ちたい。前に出たい。俺の名前を、彼女の口から、呼ばせたい)


花火の音が胃に落ちる。光が目を焼く。欲が膨れる。手が勝手に動きそうになる。帯に触れたくて、指先が震える。馬鹿か、と己に悪態をつく。(触ってどうする。壊すのか? 俺が?)歯を食いしばる。笑顔の形に頬を固めて、正面を向く。誰も気づかない角度で、爪が掌に食い込む。


「ねえ、綺麗」エリシアがぽつりと呟いた。戦場の声ではない、少女の声。トーマは喉が詰まって、応えられなかった。


三尺玉が上がる。鈍い雷鳴。夜が一瞬昼になる。ミリアの髪が光を浴びて淡くなり、セインの横顔の影が強くなる。エルンが短く口笛を吹いた。どよめき。歓声。あっという間に、最後の仕掛けが空を白く洗い、星が戻ってくる。


帰路は同じ風鈴の回廊を戻る。花火の余韻で人々は口数少なく、足元に落ちる光の残像だけが賑やかだ。


「ありがと。誘ってくれて」ミリアがぽつりとセインに言う。「……浴衣、着れてよかった」


「よく似合ってた」セインは素直に返す。ミリアは少しだけ顔を伏せた。袖口から覗く手首に、星硝のチャームが光る。彼女が昼に作って、セインの鞘紐に結んでくれたものとお揃いだ。


エリシアは柵の向こうの暗がりを見下ろしていた。風の層が流れていくのを目で追っている。トーマは二歩後ろを歩き、言葉を探しては飲み込む。喉の奥に焦げたものが残る。笑って誤魔化すタイミングは、とうに失われていた。


ホテルの入り口へ続く最後の踊り場。そこだけ風鈴が鳴らない。不自然なほど、静かだった。


薄い金の光が、足元で弧を描いた。空気が一度だけ逆流する。誰かがそこに“現れる”より先に、存在感だけが輪郭を持った。


挿絵(By みてみん)


旅人の外套。フードの下で、目が笑っている。足元には小さな翼のついたサンダル。手には二匹の蛇が絡む杖。


「こんばんは。いい夜だね」軽やかな声だった。音色は風に近いが、重心に鉄がある。「 やっと会えた」


セインが一歩踏み出した。「……何者だ」


旅人は、にこりと口元をゆるめ、胸の前で杖を軽く回した。「人は私をヘルメスと呼ぶ。風と道と伝令の神。ゼウスの使いさ」




ミリアの喉が鳴る。祈りの言葉が反射で浮かびかけ、彼女は唇を結んだ。


「伝言を持ってきた。君たちの“上”にいる方からだ」ヘルメスは踊り場の先、空の暗い縁を顎で示す。「白塔が鍵を隠している。急ぐことはない、けれど遅れてもいけない。ね、こういう言い方、好きだろ?」


軽口の調子なのに、目だけは笑っていない。エルンが無意識に腰の工具袋を押さえた。


「それともう一つ。道で迷ったら、誰かの拍に合わせればいい。自分の拍が暴れたら、誰かに合わせてもらえばいい。そうやって進むものだよ、上へ行く旅は」


風が戻る。風鈴が鳴き始める。ヘルメスの姿は、光の中にほどけていった。残ったのは杖の先で描いたような金の円と、微かな羽ばたきの匂い。


セインは手の中のペンダントを握った。冷たいはずの石が、少しだけ温かい。


「白塔だな」彼は短く言う。


「うん」ミリアが頷く。浴衣の袖が揺れ、そこに夜風が通った。


エリシアは帯をぎゅっと結び直した。「じゃ、明日。鍵を見つけよう」


トーマは一歩遅れて、空を見上げた。花火の残像がまだ瞼に残っている。胸の奥で、欲と誓いが互いに噛み合わず、軋んだ。それでも、笑顔を作って言う。「ああ。俺が前に立つ」


風鈴が、ひゅう、と鳴った。外縁の夜は深く、明日はすでに始まっている。

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