48話「嵐の門(ストームゲート)」—風裂渓を抜けて
雲海に、裂け目が走っていた。
昼と夜の境目みたいな蒼の谷間を、風がむき出しの刃になって駆け抜ける。上昇気流と落下風がぶつかって、空気そのものが軋んでいた。稲妻は縦に落ちず、ねじれながら横へ滑っていく。そこが、セレスティアへ上がる唯一の正規ルート——“嵐の門”。
最初の突風で身体が浮いた。トーマが咄嗟に盾を前へ差し出す。風を斜めに割ると、押し返される荷重が肩にひっかかった。骨が鳴る。足裏を滑らせながら、縁のリブに縁を噛ませる。
「まだ持てる!」喉が焼けるほどの風の中、トーマは叫んだ。
(俺は支えだ。前は俺の場所だ——)
胸の奥に残った棘が、風に煽られて焼ける。セインとエリシアが無言の合図で間合いを詰めるのが視界の端に入っただけで、胃がひゅうっと縮む。
(届かない。誰も俺を見ない。見せ場はいつも——)
噛みしめた奥歯が軋んだ。盾の縁がリブに食い込み、肘と腰と足裏で荷重を三つに割る。
「……押せる」
谷壁に等間隔で埋まった黒い石柱が、風で低く唸っている。風琴石。これを“鳴らし”、風の拍を整えないと谷は通さない。稲妻の轟きに混じって、別の音があった。胸元のペンダントだ。鼓動みたいに規則正しく、けれど半拍ずれている。
「拍が合ってない」ミリアが短く息を吸い、両腕を広げた。言葉はない。ただ祈る。薄い風膜がまず一枚、続いて水の膜が霧のように重なり、最後に光の膜が全体をふわりと包む。三つの膜は段違いで、ずれた拍をなだめるように揺れた。
風がすこし柔らかくなる。落雷が膜に当たり、火花だけ散らして逸れた。ミリア自身が驚いた顔をする。祈れば来る、という感覚が、今は手の中にあるらしい。
「来るぞ」エルンが顎で示した。谷の奥、雷が束になって編まれ、四足の影が連なってせり上がってくる。鎖を体に巻いた狼——いや、鎖そのものが獣の形を取っていた。“雷鎖グリム”。門の心臓を守る番だ。
鎖が鞭のように唸って伸びる。トーマの盾が受け、三点で荷重を流す。足の骨が震えた。盾の縁に走った火花が、黒い鎖を白く照らす。
(耐えろ。支えろ。ここは俺の番だ)
内側の声が、今日は責めも嘲りも混じらず、ただ背中を押した。
「錨盾、固定っ!」
エリシアが滑る。風を足裏にまとって軽く、次の瞬間には剣に雷を纏わせて鎖の結び目へ。痺れで動きが鈍ったところへ火を差し込み、圧で捻り、最後に氷で継ぎ目を縫う。二段、三段。鎖の節が爆ぜて飛んだ。
「一本、落ちた!」
彼女の剣筋は回路だった。魔力が刃を流れては入れ替わる。目で追えるのに、追いきれない。
セインは谷の音に耳を澄ませた。風琴石の低音、雷の轟き、ペンダントの鼓動——全部が半拍ずれている。そこに薄い面ができている。
(表じゃない。裏だ)
足元の流れを見切ると、脛から腰へと重心を叩き上げ、落ちた稲妻の“直後”へ身を滑らせた。雷の尾の、空白。稲妻に追い越される形で位置が入れ替わる。
「——ッ」谷の風が一瞬だけ驚いたように止まり、次の拍でまた吠えた。
裏拍の滑りを二度、三度。心臓が追いつき、ペンダントの鼓動が風琴石の唸りに寄っていく。
「エルン、あの石、割れてる!」ミリアが指さした。中央の風琴石に欠けがある。鳴りが歪む原因だ。
「一拍、止めろってことだな!」エルンは腰袋からボルトとワイヤーを引っ張り、雨あられの火花の中を走る。ミリアの水膜が彼の背中を押して重さを軽くし、光膜が落雷を斜めに逸らす。エルンは片膝で滑り込み、欠け目にワイヤを噛ませ、ボルトを二度打った。小さな金属音が、風の底に届く。
雷鎖グリムが最後の鎖を振り下ろす。トーマの膝が沈む。
(負けるな。ここで負けたら全部後ろに倒れる)
脊柱で風を受け、腰で曲げ、足で地へ逃がす。三点で受け切ると、鎖の衝撃が石の奥へ抜けた。トーマは吠えず、ただ短く息を吐く。
「——今!」
セインが踏み込む。裏拍で滑り、薄い面を裂く。風琴石とペンダントの拍が、ぴたりと重なった瞬間、刃が心臓部へまっすぐ落ちた。
硬い芯に、針を置くような小さな音。「コ」。
次の瞬間、谷全体の風がひっくり返る。敵対していた風と風が、同じ曲を奏で始めた。稲妻が一本、天へ戻っていく。門の文様が起動し、ふいと空が明るくなった。
雷鎖グリムの鎖がばらけ、風に解ける。エリシアが切り裂き、トーマが押し返し、エルンが引き戻す。ミリアが祈りの膜を一度だけ重ね直すと、暴れていた雷精たちが潮のように退いていった。
谷の中央に、細い綱のような光がのびる。風が編んだ滑空路だ。遠く、観測気球の光点が一つ、雲に吸い込まれた。誰かが見ているだけの気配を置いて。
セインは肩で呼吸しながら、ミリアの視線に気づく。
「今の、止めたんじゃないのね」彼女は小さく呟いた。「……拍、合わせた」
「たぶん」セインは頷いた。「重ねただけだ」
「話はあと! 今なら行ける!」エルンがワイヤを巻き取り、綱の先を覗き込む。雲海の向こう、光が薄く折り返して層になっている。
トーマは盾を肩から外し、呼吸を整えた。胸の棘は、まだそこにある。
(もっと強く。誰よりも。強ければ——)
喉の奥で言葉にならないものが燃えた。だが口に出したのは、ただ一つ。
「先頭、俺が行く。風、割る」
四人が続く。エリシアは剣を納めながら、トーマの背に視線を一瞬だけ落とした。
「頼りにしてる」
その一言で、棘がまた疼く。けれど、踏み出す足は軽かった。
滑空路は、思っていたよりも狭かった。風の筋が集まってできた一本の帯。透明な板の上を歩いているようで、足裏の感覚が信じられなくなる。ミリアの光膜が薄く足元に沿い、落ちる想像を押し止める。
稲妻はもう斜めに流れるだけで、彼らに触れない。風琴石のうなりは、眠る大きな獣の寝息みたいに穏やかだ。
綱が終わる。雲が切れ、夜の天幕が近づいた。視界いっぱいに、円環が現れる。
空に浮かぶ陸——外縁リング。光の街路が蜘蛛の巣のように走り、縁には白い塔が等間隔に立つ。雲海の上に、もう一つの世界が静かに横たわっていた。
最後の一歩は、空気が変わる音がした。足裏の感触が柔らかい岩へと移り、風が急に低くなる。耳の奥で、ペンダントが一度だけ低く鳴った。合図のように。
誰も喋らなかった。喉に言葉が詰まる。
トーマが一拍遅れて、息をついた。肩から落ちた荷重が、ようやく地面に溶ける。胸の棘は消えない。それでも、今は少しだけ、静かだ。
「——着いたな」セインがやっとのことで声にした。
エリシアが笑う。風に前髪を揺らして、子どものような目になっていた。
「ほんとに、空の上だ」
ミリアは両手を胸に添えて、そっと祈るみたいに目を閉じる。風が彼女の指先を撫で、遠くの鐘楼が一度だけ鳴った気がした。
エルンは腰の工具を鳴らし、リングの縁を覗き込んだ。「兄貴、見えてるか? ……俺、上がってきたぞ」
夜の外縁リングに、四人と一人の影が並ぶ。
雲の底で嵐が遠ざかり、上では星がまたたく。
ここから、セレスティアの物語が始まる。




