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45話「風の階を登れ」—雲に刻む拍



 夜の屋根街に、薄い階段が一段だけ浮かんでいた。風を受ける帆板が影を伸ばし、天蓋の縁で光が脈打つ。セインの胸元のペンダントが、心臓とは別のテンポで低く震えた。上へ、とせき立てるみたいに。


「ロープ、全員に。結び目は二重にして」エルンが手早く支度を配る。

「念のため、もう一巻き」ミリアは結び目に手を添え、そっと祈りを落とす。細い光が糸の芯に吸い込まれて、きゅ、と張りが増した。


 最初の段に足を置くと、空気が一段冷たくなる。風は斜め上へと流れ、階段は雲へ向かって薄く途切れ途切れに続いていた。


「ビビって足すくむなら下に残ってろよ、セイン」背でトーマが吐き捨てる。

「は? 先に行ってもいいけど、落ちるなよ」セインは肩越しに笑う。

「お前に言われる筋合いねぇし。……どうせ、また“拍”が見えるとか言うんだろ。便利だな、見えるやつは」


 言い方がとげとげしくて、エリシアがちらと振り返った。「ケンカは上でやって。落ちるよ」


 ロープで繋がれた五人は、一段、また一段と夜空に体を預けていく。風は細く、しかし絶えず吹き上がり、足場は紙みたいに心もとない。ベールサラムの灯りが遠ざかるにつれて、雲の匂いが濃くなった。


 最初の異音は、不意に背中をなでる湿り気だった。ぬるり、と風が捻れる。


「来る」セインが剣を傾ける。雲の縁を裂いて、銀青の影が跳ねた。鰻みたいな長い胴、膜翼に映る星の光。空鰻スカイイールが数尾、階段に沿って走ってくる。

「横の乱流、厚い」エルンがワイヤーを張って、見えない腰掛けを一拍だけ作る。「足場、そこ」


 空鰻の口腔がぱっと開いて、雷を噛んだ舌がのぞく。撃たせる前に——。


「ミリア!」

「うん、歌う」


 声が風の中でほどけた。ミリアの喉が震え、胸に片手が添えられる。旋律は低く、波みたいに緩やかに始まり、すぐに二声、三声へと寄り添う。「鎮風の詠」。階段の外縁に薄い膜が張られ、風が柔らかく曲がっていく。祈りの魔法とは違う、音が形になる感じ。

 続けて、彼女は祈りを短く繋ぐ。「風、水、光」。無詠唱で三重の膜が重なり、落下を受け止め、矢のような飛沫を逸らした。


「同拍だ」セインはペンダントの鼓動を耳の奥で拾い、空鰻の身を走る微かな“拍”に合わせて一足踏み込む。剣先が薄い皮膜を裂くと、空鰻の雷舌がずれ、放たれた電光が空中で空転した。

「風縫い、雷針、火圧、氷留——」エリシアの剣に魔法が次々と纏う。風で間合いを引き寄せ、雷で痺れを走らせ、火で圧をかけ、最後に氷で関節を縫い留める。滑るような四連の所作で、一本を落とす。


「前の風、俺が受ける!」トーマが〈斜面盾〉を立てて段の角で角度を作り、吹き上げる風を斜めに逃がす。盾の縁が熱を帯び、肩に載る荷重が骨を軋ませた。

(重い? 当たり前だ。もっと来い。全部受けられりゃ——俺が前だ)

 内側の声は、もはや叱咤ではなく飢えに近い。セインが空鰻を断つたび、胸の奥がざわついた。(また、決めやがって)


 空鰻の奇襲を払い終えると、階段は薄い踊り場へと拓けた。雲の隙間に、風だけが鳴る円環の広場——“風の盤”。その中央に、蒼い翼の影が降り立つ。


 蒼鋼のグリフォン。翼の内側に硬い羽根が畳まれ、爪は金属の鈍い光を放つ。喉から洩れる吐息は冷たく、そして——静かだった。

「……音が消えてる」ミリアが息をのむ。「風の拍を、吸ってる」


 グリフォンが翼を半ば開き、空の音を奪った。ペンダントの鼓動だけが、胸の奥で浮いている。セインは一瞬、足の置き場所を失う。


「音が死ぬ前に刺して」ミリアが短く告げる。「合図、私が出す」

「頼んだ」


 グリフォンが低く身を沈め、突風を起こす。エルンのワイヤーがきゅっと張り、外縁に“仮の柱”を立てる。トーマは盾の縁を踊り場のリブに噛ませ、肩で風を受け止めた。〈錨盾〉。膝が沈んでも、足は抜かない。


「痛ぇなら下りてろよ、セイン」トーマは歯の間から吐く。「どうせお前が刺すんだろ。ほら、見せてみろよ、特別なやつ」

「……終わったら殴るから覚悟しとけ」


 軽口のはずが、棘が刺さったままだった。エリシアが二人の間に風の筋を引く。「後で。今は同じ方向を見て」


 グリフォンが喉奥で音を潰し、音のない一撃が来る。羽ばたいた瞬間に、盤の空気が全部持っていかれた。耳鳴りに似た空白。

「今——!」ミリアの指が空を切る。拍の“止めどき”。

 セインはその一拍に、己の鼓動をねじ込んだ。見えない面が柔らかくなり、剣がそこを通る。

「同拍刺し!」


 刃が首の継ぎ目を浅く割る。硬い。すぐさまエリシアが追う。「雷針」——裂け目に電光を差し込み、硬直を作る。「火圧」——圧をかけ、ひびを広げる。「氷留」——割れ目を凍りで縫って動きを殺す。

 エルンのワイヤーが後脚を絡め取り、ほんの一拍、巨体が床に縫い付けられた。

「トーマ!」

「持ってる!」〈錨盾〉が風を噛み、盤が落ちない。肩が焼けるように痛い。(もっと、重さを寄越せ。俺にくれ)


 ミリアは歌を変えた。旋律は高く、澄んだ音階が夜空の上層へ滑っていく。「断風の詠」。奪われていた空の音が、グリフォンの翼から剥がれ落ちた。彼女は続けて祈る。「光——」刃の軌道に沿って細い光が走り、ひびの縁を浮かび上がらせる。


「そこ!」ミリアの指が示す。セインは踏み込み、ひと息で刃を落とした。蒼鋼の胸甲が割れ、内に隠れていた蒼いコアが露出する。

 エリシアが刃を反転させ、風で間合いを押し、雷で痺れ、火で圧縮。最後にセインの剣がコアを貫いた。


 蒼い光が、ぱん、と弾ける。風の盤に、音が戻ってきた。グリフォンは一拍、夜空を睨み、それから粉々の羽根になって散った。盤の中心に、指輪みたいな蒼いリングが転がる。


 セインが拾い上げる前に、ペンダントが自分から脈を大きくして、それを吸い込んだ。鎖骨の内側がひやりとし、次の階段の輪郭が空へ伸びる。


「……やっぱり、止めてはいない」ミリアがセインの横顔を見た。「今のも、“重ねた”んだよね。時を止めるんじゃなくて、拍を重ねて、通す」

「ああ。止められないものは、止めずにすり抜ける」

「不思議」ミリアは微笑む。「歌うと、見えるの。止めどきが」


 その微笑みに、セインは短く息をのんだ。言葉にすれば壊れそうで、ただ頷く。


「……チームワーク、ね」トーマがぽつりと呟いた。息は荒い。「どいつもこいつも、器用だよな」

「嫌味?」エリシアが目を細める。

「事実だろ。俺は受けるだけ。受け止めて、押し返すだけ。……それで十分かよ」

 吐き出すたび、胸の棘が深くなる。(強くなれ。もっと。圧倒的に。あいつらを置いてでも)


 ロープの向こうで、エルンが静かに言う。「お前の受けが止まれば、俺たち全員落ちる。十分どころか、それが要だ」

「……うるせぇよ」トーマは顔を背けた。言い返した舌の裏に、痛いほどの肯定が残る。わかってる。わかってるけど、足りない。


 風の階は、さらに上へ延びていく。雲の切れ間から、白い帯みたいな“滑空廊”が遠く見えた。セレスティア外縁。

「行こう」セインが言う。

「うん。歌、続ける」ミリアが頷き、低い調子で「鎮風」をつなぐ。祈りと歌、二つの術が彼女の腕から指へ、指から風へと溶ける。

「私も、回す」エリシアは刃を握り直す。四元素の纏装は、もう自然な呼吸になっていた。

 エルンがロープを整え、目配せを送る。

 トーマは盾の革紐を締め直し、ぼそっと言った。「落ちんなよ、セイン」

「お前に言われなくても」

「落ちたら、お前だけ置いてくからな」

「はいはい」


 悪態の棘はまだ抜けない。だが、五人の影は一本の線になり、風の階の次の段へと消えていった。夜空は深く、冷たく、そして確かに開いている。


 ペンダントが、一回だけ低く鳴った。上へ。今度は、誰も振り返らなかった。

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