43話「鏡宿の決闘」—ベールサラム地下・嫉妬司祭ヴァイス
最初の鏡が砕け、光の雨が降った。破片が床を転がり、天井の反射が幾重にも揺れる。こちらの姿も相手の影も、何十にも増えては歪んだ。
「来る」トーマが一歩前へ。盾を傾け、衝撃と熱を斜め上へ逃がす〈斜面盾〉をつくる。金属の縁がすぐに赤く染まった。
鏡面から男が歩み出る。漆黒の燕尾服、白い手袋。片方だけ笑う目が、覗き込むように細くなる。
「挨拶は短く。比較は長く。さあ、比べよう」
嫉妬派の司祭ヴァイスがゆらりと距離を詰め、トーマの目前でぴたりと止まった。白い指先が額に触れる。
胸の奥に、細い棘が刺さったような痛み。視界の端が勝手に巻き戻る。稽古のあと、エリシアがセインの肩を軽く叩いて笑った場面。任務帰り、二人だけの会話に割り込めず立ち尽くした場面。夜営の炎の向こうで、並んで剣について語り合う横顔。
——ああ、俺、エリシアのことが好きだ。
言葉になった瞬間、別の声が頭の内側に滑り込む。〈知ってたろ。だから前に出て壁をやってる。攻める力はないから〉
(違う。俺は守るから前にいる)
〈守るだけ。いつか置いていかれる。セインがいれば十分、って〉
奥歯が軋む。トーマは反射的に盾の角でヴァイスの手を弾いた。棘は抜けない。胸が重い。呼吸が浅くなる。
「良い燃料だね」ヴァイスが指を鳴らす。鏡の床から巨大な秤がせり上がり、片方の皿に“理想の自分たち”、もう片方に“今の自分たち”が映る。差分が火花になって溢れ、触れた胸の内側を焼いた。
「させない」エリシアが駆ける。剣に風を通し、ヴァイスの足元に“冷たい切れ目”を入れる。そこへ火で圧をかけ、雷で痺れを刻み、最後に薄氷で縫い留めた。四属性が連なって、初めて形になった一撃。自分でも驚くほど動きがつながる。
「今の、いい」エルンが短く言い、天井へ撃ったアンカーから細いワイヤーで降りる。鏡の梁に糸を渡し、秤の軸を斜めに引いて動きを鈍らせた。投げ針が、鏡の縁に編み込まれた黒い糸筋をつぎつぎ断つ。
セインは半拍だけ呼吸をずらす。胸のペンダントが微かに熱を帯び、世界のテンポがふっと遅れた——ように“感じる”。空気の層に薄い面が現れ、そこだけ軽い。
「調律——半拍返し」
一閃。刃が鏡の裏側を捉え、黒い糸がぷつりと切れる。ヴァイスの片目が、一拍分だけ笑わなくなった。
「時を止めた? 違う」ミリアが眉を寄せる。詠唱を始めかけ、喉が詰まった。言葉が邪魔だ、と直感が告げる。胸の前で指を組み、そっと祈った。音は吐かない。ただ、願いの形を整える。
水と光が重なり、無詠唱の薄膜がぱっと立つ。降り注ぐ鏡片の刃が膜に触れて鈍った。息をのむ間もなく、彼女はもう一つ祈る。風が膜の縁を撫でて厚みを均し、土の力が足元に“重さ”を戻す。詠唱はいらない——祈りが道を描く。喉が震え、胸に熱が灯った。
「できる……できる」ミリアは自分に小さくうなずき、膜を二重に重ねた。彼女の中で、歌の“和声”とは違う、素直な魔法の路が開いていく。
ヴァイスが影へ沈み、次にはミリアの喉元に白い指をのせていた。「祈りで七つに触る。歌わずに、祈る。賢い。でも——」
エリシアの平打ちがその手を払う。ミリアは一歩も退かず、視線はセインへ向いた。「ズラすの、今じゃない。もう半拍、待って」
「頼む」セインはペンダントの熱に呼吸を合わせる。視界の縁に二枚目の“薄い面”が浮かぶ。踏み出し、半拍のずれに刃先を合わせる。体内の拍が一つ合わさった。
秤が吠え、ヴァイスの声が重なる。「比べ続けよう。君と、君。君と、君」
秤の皿から影の手が伸び、トーマの足首に絡みつく。胸の棘が疼いた。再び、あの像が流れ込む。セインの背に並んで走るエリシア。距離が近い。笑い方が柔らかい。
(やっぱり、俺じゃない)
〈そう。君は重い、遅い、代わりはいくらでもいる〉
(黙れ。俺は——)
「トーマ、息。三拍吸って、三拍吐くの」ミリアの声が届く。祈りの膜が胸の内側まで染みて、刺すような火花の熱がわずかに落ちた。トーマは胸を開いて吸い込み、吐く。足首の影を踵で踏み潰し、もう一歩前へ。
「前は、俺の場所だ」小さく、けれどはっきり言う。嫉妬も劣等も消えない。それでも、足は出た。
ヴァイスがふっと笑って消え、今度はセインへ影の鎖を絡める。その鎖を、天井から別の影が切り落とした。極細の銀。エルンのワイヤーだ。
「鏡糸、見える。切る」
糸が音もなく走り、黒い編み目に正確に刺さっていく。秤の軸がきしみ、ヴァイスの足場が僅かに沈む。
「ここ」ミリアが指先で空を指す。祈りが薄い光の印になって床に刻まれ、ズレの出口が見える。「今、外して」
「合わせる!」エリシアが息を尖らせる。風が路を作り、火が広げ、雷が神経を凍らせ、氷が縫い止める——さっきより速い。剣を“道具”ではなく“回路”として扱う感覚が芽生え、刃に魔力がきれいに乗る。剣身の縁が淡く光った。
「押し込む」トーマが吠えた。盾面をもう一段傾け、熱と衝撃の流れを作る。〈斜面盾〉の角度を刻々調整し、ヴァイスの退路を斜めの壁で塞ぐ。膝が笑っても踏ん張る。肩が焼けても離さない。
〈それでも劣る。見ろ、二人は前へ出た。お前は壁〉
(壁なら、それでいい。通さなければ、勝ちに近づく)
「今!」エルンがワイヤーを交差させ、秤の軸を短く固定した。「動き、止まった」
「落とす!」ミリアが共鳴をゼロへ落とし、ヴァイスの“比べる音”そのものを消す。無詠唱の祈りが、空気の骨を一本抜いたように場を静めた。
「断つ!」セインが薄い面を貫く。
「調律断ち・鏡心穿ち!」
刀身が秤の中心を貫き、鏡の心臓が割れた。ヴァイスの姿が一瞬ぶれ、同じ顔が何枚も重なったまま、砂のように崩れ始める。
「まだだよ」百枚の鏡から囁き声がこぼれる。「比べるのをやめられると思う?」
最後の反撃。空一面に鏡片が舞い、刃の雨になって落ちる。ミリアの祈りが二重、三重の膜を重ね、雨脚を鈍らせた。それでも抜けた刃を、トーマが盾で弾き、エルンのワイヤーが掃き寄せ、エリシアの剣が叩き落とす。
セインは息を詰め、もう一段だけ深くずらす。半拍ではない。拍そのものを、一瞬だけ重ねる。額に汗が滲み、ペンダントが微かに唸った。刃が鏡核のど真ん中へ届く。静かな音——そして、ヴァイスの笑いがふっと消えた。
残ったのは掌大の鏡核と、黒封蝋の小札。床一面の鏡砂は、ただの砂へ戻っていく。
静寂。五人の息遣いだけが響いた。
エリシアが肩で息をしながら鏡核を拾い上げる。「終わった……よね」
自分の剣を見る。刃の縁に薄い魔力の光が残っている。意識して纏わせたわけじゃない。戦いの中で、体が覚えた。胸の奥が熱くなる。できる。もっとやれる。
「手応えはあった」セインは封蝋を摘み、紋を指でなぞった。胸のペンダントが低く明滅する。二度。上へ、と告げる合図のように。
ミリアがセインを見上げる。「さっきの“ずらし”、やっぱり時間じゃない。テンポと拍を外して、相手のリズムを壊してる。時魔法みたいに見えるけど……違う気がする。怖いなら、私が“止めどき”を合図するから」
彼女自身も、掌を見つめて小さく息をついた。言葉はいらない。祈れば、魔法は来る。無詠唱——できた。足は震えているのに、胸だけは不思議と静かだった。
「頼む。今はそれで行く」セインがうなずく。
エルンはワイヤーを巻き取りながら短く言った。「一人、落とした。まだ、切る」
トーマは盾を肩にかけ直す。胸の棘はまだそこにある。
(俺はエリシアが好きだ。今、はっきりわかった。嫉妬した。劣るって声も聞いた)
〈そう、そのまま焦げていけばいい〉
(焦げたって、前に立つ。俺の場所はここだ)
エリシアが覗き込んだ。「トーマ、ほんとに平気? 顔、熱っぽい」
「平気だ。少し、息が上がっただけ」いつも通りの声を選ぶ。胸の温度は隠したまま、前を見る。
セインが封蝋の紋をもう一度確かめ、短く告げた。「上だ。鍵穴は空にある」
砕けた鏡はもう何も映さない。五つの影だけが、同じ方向を向いた。上へ。次の扉を開けるために。




